Monday, June 27, 2011

ベカンベウシ川 序


広大な湿原の中央で気儘に艶美に身をくねらせながら蛇行する川の、一つの曲がり目をカヌーで川下へと廻り込むと、川面に群れていた七八羽の白鳥に予期せず鉢合わせた。こちらもびっくりであるが、あちらもびっくりである。白鳥は一斉に飛び立ち去ろうとするが、なにせ飛ぶ鳥としては世界最大級の重量、飛行機のように長い距離を滑走しないと飛び立てない。進める方向といえば、川に沿って上流か下流だけ。何を思ったのか、より短距離で飛び立つために風上へ向かいたかったのか、こともあろうに僕の方に向かって滑走してくる。大きく羽ばたいてバァッサバァッサと空気を切り裂き、水掻きでバシャバシャバシャと水面を連打し、十キロを超える巨体が二メートル以上ある翼を広げて、七八羽が一塊となり激しい音を立てて僕に真っ直ぐ突っ込んでくるのである。ぐんぐんと白鳥の群れが迫る。あわやこのまま正面衝突するのではという距離まで近づくと、やっと宙に舞い上がり、僕のわずか数十センチ上空をかすめて白鳥の一群が後方へと飛び去っていく。その瞬間、地球と、地球が育む生命の躍動に、包み込まれ、飲み込まれ、時が凍結した。


五月初旬の北海道東部。まだ冬枯れたヨシやスゲで覆いつくされた低層湿原の中央を横切って、カヌーは流されている。川面に浮くカヌーからの視点は低く、岸辺に密生するヨシの先端は、カヌーに乗った僕の頭よりも高くて見上げた位置。湿原に細く長く刻まれた川の溝に、僕の姿は隠れてしまう。上陸してヨシを見下ろす高さまで上がらなければ、平らな湿原を遠く広く望み見ることができない。だが、人の営みが撒き散らす喧騒から逃れた森閑な湿原一面に、丹頂鶴の力強い鳴き声が響き渡れば、カヌーに乗ったままで目視できなくても、聴覚だけで、湿原の空間的広がりを感じ取ることができる。直接耳に届く鳴き声の距離感覚と方向感覚、反響音の距離感覚と方向感覚が、頭の中で立体的な空間を描き出すのだろうか。ヨシの茎が反射する微細な音の位相までが、静寂の中に浮き上がり、空間認識を司る脳細胞のフィルムに緻密な立体像を焼き付けるようだ。空間の広がりを感じる喜び……視覚で広がりを感じる喜びは、すでに手に入れている。聴覚で広がりを感じる喜びも、いま此処に手に入れた。次は、嗅覚で広がりを感じる喜びを、もし手に入れることができるのならば、ヒグマが見る世界の風景を、その喜びを知ることができるのだろう。

湿原は見渡すかぎりわずかな丘も、背丈ほどの起伏すらなく、湖面のように平らだ。地表面まで冠水しており、踏み入ればずぶずぶと足が泥炭に沈み込む。その昔、浅い沼に茂ったヨシやスゲの植物遺骸が、あまり腐らず堆積して泥炭となり、やがて沼を埋め尽くして湿原となった。ヨシやスゲは、自らの亡骸を大地として、繰り返し芽吹き再生し続ける。地形面と地下水面が一致した、何処までも水平な大地の広がりに、昔の沼の面影を残しているのだ。

真っ平らな湿原で腰より高いものといえば、数本だけ寄り添いごく僅かに点在する樹木だけ。空を遮るものが何も無い。前を見ても、後ろを見ても、右を見ても、左を見ても、果てしなく水平に広がるヨシの原と、上に重なる薄い森の層と、青い空。空は欠けることなき美しい半球となり、イデアを成す。広大な湿原の何処までカヌーが流されようとも、空は、世界の上半分を圧倒的に独占している。

飛翔を妨げる山や丘や木立すらない水平な大地の上空は、曲芸飛行には打って付けの空間だ。オオジシギが、この湿原で一番激しい求愛の舞を披露する。五十メートルほど上空を飛びながら、ひとしきりジュジャー、ジュジャーと、ヒョウタンの刻みを棒で擦るように叫んだあと、一転してブァブァブァブァブァと激しい羽音を空一面に響かせながら、地表近くまで急降下する。音が空間を上下左右に乱舞する。なんという型破りな愛の表現だろう。昼夜構わず飛び回る。初めてこの空気を切り裂き空から落ちてくる奇怪な音を聞いたときには、いったいどんな生き物が何事を始めたのかと、ずいぶんと驚いて、長いこと空を見上げ姿を探し求めたものだ。今ではすっかり慣れ親しんで、夜の野営地でオオジシギの羽音が一晩中響いていたほうが、かえってテントの中で安らかに眠れるが。

鴨の群れは、さらに高い空を悠々と横切っていく。彼らなりの、風を切り飛行することを知らない僕には知り得ない動機で、隊形や方向を絶え間なく変えるのを眺めているだけでも、色々と想像を掻き立てられて実に楽しい。

丹頂鶴が頭上を飛び去るのは、鮮烈な体験だ。飛翔体の機能美を超え美学を追求したような流麗な姿で、コウッ、コウッ、と目の覚める鋭い輪郭の鳴き声を響かせながら、上空を優雅に通過する。純白と漆黒のコントラストが美しい。たった一羽の飛翔であっても、その存在感は圧倒的である。あの細く長い喉に木管楽器でも飲み込んでいるかのような力強い鳴き声で、その瞬間、湿原を行き届かぬところ無く支配してしまう。丹頂鶴が呼びかける響きの強さに精神が同調してしまうのか、僕の意識も束の間さらわれる。神々しいほどに美しい姿と声に、空を見上げ口を開けて陶然とする。

空から湿原に視線を落としてみれば、色とりどりの小鳥達が、ヨシの細い茎に掴まりながら賑やかに囀り、茎から茎へと軽快に飛び回る。まだ葉のない冬枯れのヨシ原では小鳥の姿があらわで、野鳥観察には最適だ。僕が近づいても、驚き逃げることがない。人間におびやかされた経験がないからなのだろうか。また、漕がずに、一滴の音も立てずに、ただ倒木のように流れるカヌーには、気が付いてはいるものの逃げ出すほどの驚異は感じないのだろうか。双眼鏡など使うまでもなく、その愛くるしい小さな姿と可憐な歌声を、目の前で惜しむことなく披露してくれる。しかもだ、カヌーはゆっくりと川下へ流されているので、次から次へと舞台が移り変わり、歌い舞う小鳥達のキャストも入れ替わる。小鳥の楽園。小鳥達が祝福している?何を?僕を?僕を何処かへ導いてくれるのか?そんなおとぎ話のような夢見心地の発想が思わず浮かび上ってしまう、小鳥達の天使のような愛らしさ。


カヌーはチェコ製、全長3・8メートル、幅75センチのヘリオス380。一人で持ち上げられる重量。水色と薄いイエロー。前後に席が連なる二人乗りだが、前席にはキャンプ道具と食料を隙間なく詰め込み、自分は一人後席に座る。インフレータブルカヤックという、カヌー全体を空気で膨らます、波が猛り狂う急流下りなどで威力を発揮するタイプだ。船底も、舟縁も、梁も、背もたれさえも、全てのパーツが厚く丈夫な樹脂シートの気室で造られており、足踏みのエアポンプで空気をパンパンに充填して強い張りを持たせる。空気の優れた断熱性と弾力のおかげで、カヌー全体がエアマットのように柔らかくて暖かい。

パドルはカヌーの上に横たえ、ただ落ちないように片手で軽く掴んでいるだけだ。もう水に差し入れ漕ぐことはしない。革張りのソファーに似た心地よい弾力の背もたれに、深々と頭まであずける。ヘリオスの背もたれは、まるで漕ぐためではなく、気持ちよく寝るためにデザインされたようで、仰向けに寝転がると実にしっくりとくる。両足は、前席の背もたれに高々と投げ出す。これは一回り大きい枕といった形で、足を乗せれば、これまたフットレストとしてデザインされたかのような快適さだ。両手を舟縁りに乗せれば、高さと弾力が肘掛けとして調度よい。カヌーに、寝風呂のイメージでも重ねてもらえれば適当か。全身の力を抜いて仰向けに横たわれば、休日の散歩のように穏やかな川の流れが、カヌーのゆり篭をゆらゆらと優しく揺するのが気持ちいい。春の柔らかな日差しは、羽毛よりも暖かくて軽い掛け布団のよう。目を閉じれば心がとろけ、そのまま夢の世界へといざなわれる。母なる地球に抱かれた、世界一心地良いベッド。

本来、カヌーとは休みなく漕ぎ続けるものだ。さもなければいずれ転覆してしまう。パドルを漕いで、右へ左へと不規則に廻り込むカヌーの舳先を、進行方向へ真っ直ぐ向くように修正する。水面上に露出した岩だけでなく、水面下に潜む隠れ岩も、ぶつからぬように回避する。一見すれば一様に見えるが、実際は場所によって複雑に異なる水の流れを選び移動する。砂や小石が堆積した浅瀬を、座礁しないように避ける。波が荒れる早瀬の手前で、水の流れを読みコースを決めるために、流れに逆らい停滞する。カヌーは横から波を受けると転覆するので、波は常に垂直に受ける。強く漕ぎ、前に進む力で、波に翻弄されるカヌーを安定させる。細かいパドル操作で、襲いかかる波を乗り切る。

川が濃密な原生林を蛇行しながら流れている上流域では、根元の土を水の流れに削り取られた川岸の樹木が、川に倒れこんで川幅いっぱいに流れを塞ぎ、次から次へと頻繁にカヌーの行く手を阻んでいた。どうにかこうにか工夫してその障害物を乗り越えなければ、まったく先に進めない。何も手立てを講ずることができないままに突っ込んでしまえば、倒木に引っ掛かり水の流れに逆らって静止したカヌーには、恐ろしいほどの水圧が伸し掛かり、ひっくり返されるか折れ曲がってしまうだろう。パドルを漕ぐ手を休めている暇がない。

だがいま、カヌーは上流域を抜け、中流域の広大なベカンベウシ湿原に入っている。低層湿原では樹木がほとんど育たないため、川を塞ぐ倒木がない。ヨシやスゲと、その亡骸の泥炭だけで埋め尽くされた湿原には、川岸にも川底にも衝突するような岩がない。岩どころか石ころすらない。お盆のように平らな湿原では、どこもかしこも川の流れはゆっくりと同じ速さで流れており、早瀬を警戒する必要もない。腰の高さほどに水面から垂直に切り立つ川岸には、ヨシと柔らかな泥炭だけが露出していて、インフレータブルカヌーが衝突しても、衝撃もなくやんわりと押し返すだけだ。命に関わる、最も危険な堰や防波ブロックや橋脚などの人工物は、当然ない。カヌーを漕いで障害物を避ける必要は、もう一切ないのだ。無防備にカヌーを川の流れに委ね、たとえ後ろ向きに流されようが、進行方向に待ち受ける障害物を気にして振り向くこともなく、ただただ流れ行く景色にうっとりと見とれながら、漕がずに寝そべっていられる。

心底安心してカヌーの上で寝こんでしまえる川は、ここ以外には知らない。カナダのユーコン川では、全長三千キロメートルの大河ゆえに、流れは早くても水面は湖のように穏やかで、やはり昼寝を楽しむことが出来た。しかしながらも、川岸の何かに引っかかって転覆する可能性を完全には否定できずに、まどろみながらも、気になり時たま起き上がっては周りの様子を確認していたものだ。この川のこの湿原を流れるカヌーは、南の島で椰子の木にぶら下がったハンモックに勝る、世界で一番昼寝をするに気持ちのいい場所である。

昼寝をするに世界一ならば、ビールを飲むにも世界一である。船底に転がっている、引掻き傷と凹みと泥で汚れた生ぬるい缶ビールを取り出して、プシュッと心地良い音を立てプルトップを開ける。まずは、川の神様に捧げるために、ベカンベウシ川へと注ぐ。旅の無事を感謝します。カヌーにもかけて労をねぎらう。お疲れさん、ありがとう。一口飲み込めば、喉を通過し、胃に入り、腸で吸収され、血管を通して体中に満遍なく行き渡り、全身の細胞がうまいうまいと喜んでいるのが分かる。不思議なことに、すでに深い原野の自然に酔いしれているためか、缶ビールのたった三分の一も飲めば、此の上ない酔い心地になってしまう。都会の洒落た店で飲むキンキンに冷えた生ビールなど、まったく話にならない。ここで飲む、この生ぬるい汚れた缶ビール、こいつのほうが百倍はうまい。世界最高のビールである。


ただのんびりと寝そべるだけでパドルをまったく漕がないので、カヌーは笹舟のように流されている。カヌーは水の動きに素直に従う。本流に乗れば滑るように流れ、よどみに入ってはしばし停滞する。川岸に接触しては、柔らかく跳ね返される。速さの異なる流れを跨げば緩やかに回転し、先程まで右を向いて流されていたかと思えば、今度は後ろ向きに流され、次は左向きだ。寝転がったままで、首を回して景色を見渡さなくても、僕を取り囲む景色の方が回転して360度の大パノラマを展開してくれる。しかもだ、カヌーは川下へと移動するので景色はゆっくりと移り行き、この地球規模の回り灯篭は、刻一刻とその絵柄を入れ替えていく。移動のために体を動かすという行為から完全に解放されて、僕の全ての精神活動が、この流れ行く壮大な自然を、目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、肌で感じることに注がれる。もはや僕のちっぽけな思考など巡る余地がなく、心が空白になり、ただただ一日中、圧倒的な感動が次から次へと頭の中に流れ込む。

目に映るのは、薄青色を拡散する大気と、白いちぎれ雲、空を写す岩も早瀬も起伏もない川面、湿原を覆い尽くす冬枯れ色のヨシ、ただそれだけ。大気の粒子が反射した光、雲の水滴が反射した光、それら反射光を水面が反射した光、ヨシが反射した光。薄青色、白、冬枯れ色。それら反射光だけに満ち溢れた空間は、カヌーやザックや衣服などの此処とは異質な色彩で構成された僕と、僕の付属品を、色温度の異なるフィルムで撮影した写真のようにどこかずれた色合いに変え、旅を続けるうちにふと異なる時空へと迷いこんでしまったかのような錯覚をもたらす。それとも東京の生活が錯覚だったのか。

見上げれば空が流れている。輝く雲と澄んだ風が、淡い青色のキャンバスを背景にゆっくりと流れゆく。空も流れるが、僕も流れている。そう、高い空から見下げれば、熱帯雨林の鳥のように派手な色をまとった、ちっぽけなカヌーに乗ったちっぽけな僕が、薄茶色の湿原を蛇行する、青空を反射した一本の川筋に沿い、ゆっくりゆっくり流れていく。