2019/08/28
アラスカの原野の視点から
今まで写真展や大学などで話したことの、一つの側面。
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『アラスカの原野の視点から』
神経細胞の複雑な塊である人間の脳は、新築ではない。進化が40億年かけて増改築してきた、壮大な超高層バラックである。ある目的の為に専用設計されたわけではない。それが故に、誰もが精神の葛藤という非効率的な情報処理を日常経験する。
情動の脳も理性の脳も、どちらも欠かすことのできない存在であり、両者のバランスが程よく保たれている必要がある。人生とは、高度な訓練を必要とする、バランス棒を使った渓谷上の綱渡りである。
残念ながらもそのバランスはとても崩れやすい。我々の脳は、情動の回路が活性化すると、理性の回路は止まってしまう。激しい感情に一度押し流されれば、理性の私は回路自体が停止するので、もはや思い出されることもない。石器を握っていた昔はその方が生存に有利であったのだろう。
はるかな紀元前から、理性による情動のコントロールは語られてきた。しかし今その事を教える学校や親や社会はなく、その訓練は本人の偶然による経験が与えるだけで、その概念自体がすっぽりと抜け落ちているように見える。日本のみならず多くの国々で。人格、高尚な精神うんぬん、そのような言葉はほぼ聞かない。
個人の集まりである国家というものも、その構成要素である個人と同様の反応をする集合的な生き物であると捉えてみれば、いまどこの国家も、恐れという情動に支配され、理性の機能不全に陥っていると捉えられるのではなかろうか。環境破壊、食糧難、経済崩壊(死)への恐れや、他国(他者)への恐れ。そして恐れを覆い隠す国家発展というアドレナリン。それでは自然淘汰と不可分な動物の生態反応のままである。
ホモ・サピエンスの心には、情動も不可欠であり、理性も不可欠である。恐れや楽しみ、利他心や探求心。そしてそれらのバランスを取るのにまず最低限必要なのは、自己認識だ。個人としても国家としても。汝を知る。意識を意識する。
人間がいない動植物しか見ない原野は、己の情動を見るにしても、人間の集団を外から見るにしても、自己認識にとって格好の場所である。
人間だけが授かった高度な自己認識の能力。人間だけが授かった高度な過去現在未来と時間的に広い、また地域国世界宇宙と空間的に広い視野。人類のいく末は、個人が集合した大きな生命体として、企業という国家という地球という区切りの生命体として、存分にその授かった能力を発揮できるかどうかにかかってる。
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