前回の投稿「旅とクオリア」の補足:
クオリアは同一性を担保するという機能があって、一度薔薇の赤のクオリアを認識したら、その薔薇が置かれた部屋の照明の色温度が変化したとしても(蛍光灯から太陽光へ変わっても)その赤の質感は変わりません。カメラで写真を撮る時には色温度を調整しなければならないのに、目で見る時にはそんな必要がないのは、そういうクオリアのカラクリがあるからです。
時間と空間もクオリアで、いつでもどこでも時間と空間の質感は同じです。ただそれは同一人物内だけでの話しで、いまこれを読んでいるあなたが果たしてどのように空間を感じているのかは、僕にはまったく分からないですけど。
昔一緒に山を縦走した人が、Aという山を通過してからもうすでにピークをいくつも乗り越えていたのに、目の前にそびえる山をAだと言ったのですが、明らかに空間の捉え方が僕と違ったのでしょう。また生まれてこのかた片方の目が見えない人が、僕と同じ三次元空間の質感を持っているのかどうかは定かでありません。
一泊二日程度で車で移動する旅ならば、その人の時間や空間の質感は担保されていて、変わりません。まあ知らない土地を楽しんだというだけで、世界観までは変わらず。だけど何か日常を超えるような状況での旅やチャレンジであれば、たとえばアラスカでカヌーを漕ぐなど、または千キロにでも達するマラソンにチャレンジするなどでもすれば、本来同一性が保たれているはずの時間と空間のクオリア(質感)までもが変化するので(地平線しか見えずまた日の沈まない白夜の世界で数週間も過ごす、などした結果として)、たんなる気晴らし旅行ではなく、己の世界観がガラリと変わる、と。意識の主要素であるクオリアが変化するので、意識レベルで変化が起きると。いまここにある私の意識そのものの変化です。
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