2015/10/08

道しるべ

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 今朝の森は風に吹かれてざわつくものの、やはり静かに存在していた。大木に絡みつくツタの葉は赤く紅葉し、ホオノキの葉は地面に広がり、山栗は転がり、蝦夷リスは木の実をくわえて幹を登る。冷たい空気の匂いを吸い込んだ。
 明日厚岸へと移動する。

 大型台風が北海道沖を通過しつつある。
 
 自然と対峙する。そこには美と学びがある。そしてリスクがある。
 リスクは冒険と表裏一体だ。その行動を観る側にとっては、リスクは憂いに繋がる。そして冒険は勇気に繋がる。では憂いを避け一人で完結するために一匹狼として行動するか、それとも他者と勇気を共有するために社会と関わりながら行動するか。だが実際にはそれら両極端の中間でしか行動できそうにもない。

 情報に翻弄されすぎると、自分と自然と社会を見失ってしまう。自分と自然と社会を知るには、情報に執着せず、感覚を磨いて外界を自分で感じ取る必要がある。犬が草の匂いを嗅ぐように。
 さてはて、それでは空を見上げて自分で匂いを嗅ごうか、それとも情報機器を持ち歩き常に最新の情報収集に努めようか。台風情報の正確さにおいては自分の鼻に勝ち目はなさそうだ。人工衛星の目には、スーパーコンピューターの演算力にはかなわない。
 情報化社会において情報にアクセスしない。またはアクセスできぬ場所に行く。何かことが起これば物議を醸し出し、日本の社会から批判を浴びる可能性はとても高い。
 実際にはここにおいてもそれら両極端の中間、情報と感覚の中間においてしか行動できそうにもないが、しかしそれでも発信されている全ての情報を求めなかったことに対して、常識という名のもとに議論が起きるのだろう。覚悟しておく必要がありそうだ。

 いったいこの漠然とした平原を、それでも来た方向にだけは迷い戻ることなく進むために、何を道しるべとして目指せばよいのだろう。強さを増してきた雨と風に吹かれながら考えた。
 自然に敬意を払い、恐れず、社会に敬意を払い、恐れず、自分を賛美せず、否定せず。
 それが方位を示す小さな光ではなかろうか。

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