城西大学の学生、OB、先生達と高麗川の川掃除。台風で上流から押し流されて来たゴミが、いつもの5倍ほど河岸の植物に絡め取られていた。
以下徒然に思いつくままの、高麗川かわガールとは関係のない個人的な駄文。
高麗川上流は地域との親和性が高く、常に多くの中高生、働きに「来てくれた」外国人、家族連れ、社会人で河原が賑わっている。よい里山だ。またその結果としてのゴミも生まれている。
考えるに人間はゴミを捨てる動物だ。
動物はゴミを捨てる。いやそもそも動物が捨てる物は全て他の動植物にとっての食料であるからして、動物にゴミという概念は必要ない。だから人間も生まれながらにして、悪気も何もなくゴミを捨てる動物である。そこには何も善悪はない。
ここで一つ気付いたことがある。毎年新たな赤ん坊が世に生まれ、毎年新たな子供や外国人が高麗川のコミュニティに加わってくる。
環境問題を頻繁に口にする人も多いが、それを見聞きした人の中には、「もう充分に分かっているよ。そう頻繁に聞かされるとちょっと重いなー」と、意識の裏の何処かで感じている人も少なくないのではなかろうか。だけれどもそうか、人間は生まれたままではゴミを捨てる動物であり、毎年誕生してくる新たな参加者に知恵を伝えていく必要があるのだな。そういう視点に立てば、社会全体が少し口うるさいぐらいにならないといけないのかも知れぬ。(人間は執着する動物でもあるので、客観性を忘れて環境問題の中毒になってもこれまたイカンのだが)
世界には色々な祭りがある。秋の豊穣を祝う祭りでは、自然に対する感謝を、自然との共生を心に思う。毎年毎年格式高いキチンとした儀礼に則って繰り返し体感しないと、生まれてくる者にその知恵は芽生えないし、大人でもまた忘れてしまうのだろう。しかし少なくとも一万年は続いたその習慣が、ここわずか五十年あまりの短期間で絶滅しかかっている。
色々な名の祝日を国は設定してきたが、緑の日、海の日、山の日のような意味がありそうで意味のなさそうな祝日を、もっと目的のはっきりした「地球環境に感謝する祭りの祝日」などに変えてはどうか。何兆円もスポーツイベントに国家予算を使うのだから、数百億円でもよいから全国一斉の祭典にしたらどうか。
そんなの子供だましだって?そうかな。伝統的な地方の祭りと同じように多額の予算を用意して(地域の人は祭りのために労務やお金を持ち寄るのである)、それを経済を回す為ではなく、しっかりと決められた儀礼をとり行い、踊り食べ飲んで祭りとして全員参加で楽しむために使う。楽しみながら意識に植え込む。庶民レベルで。
人間は頭が良いと驕ってはならない。国連が世界環境デーだと言えば、馬鹿にせず、ふむふむと考えるでしょ。きっと世界は感心して追従するよ。
人間はゴミを捨てる動物である。そこに善悪はない。環境を守るということは一つ高度な理性だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿