今回の旅は予想以上に困難な旅となった。真夏に歩いて日本を縦断するというのは、真夏に野山を歩くのとは異なり、また江戸時代のように歩くことを前提とした街づくりがされている国を歩くのとは異なり、焼けたアスファルトの上を休憩する場所もなく寝る場所もないままに歩き続けるということだった。一日に何リットルという水分をとり、その分の汗をかき、それが何週間も続くという体験であった。
この経験を通し気づき直したことがあった。人間は化学反応で動く複雑な分子マシーンなのである。
一日30km以上歩くのだが、その運動で発生した熱を夏の暑い大気中へ放出しなければ、生命機能を維持できない。汗をかくことで体から熱を逃さなければならない。必要な汗の量は運動量と気温に比例し、その量は意志とは関係なく物理的に決定される。何リットルも水を飲むことになるのだが、その水を腸で吸収して、血液に取り込み、ミネラルを追加し、皮膚の汗腺から汗として出すその機能は、すべて生体分子が決められたエネルギーと決められた時間を消費しながら実行する。状況に合わせてちょっと無理をして一日に50km、60kmと歩きたくても、その運動量に見合った水分を取り込み汗をかくという内臓の機能が追いつかなくて、できない、または一晩の睡眠では体力を取り戻せないという実感があった。
そうなのである。人間が生きるということの基盤である生体分子の化学反応は、ある一定の時間とエネルギーを必要としている。それは人間の意志とは関係ない。どんなに熱い「情熱」を持っていようが、どんなに「根性」を示そうが、そのことで化学反応の速度が僅かでも早くなることは決してない。スポーツ選手のように日々トレーニングを積み重ねれば、分子マシーンの数が増えることで汗をかき熱を放出する総量は増えるはずだか、それは分子マシーンの数が増えることであって反応速度が早くなることではない。またその総量としての変化を得るには数週間以上の日数がかかるだろう。
その物理的な制限に思い当たった時に、一つの気づきが形を見せ始めた。人には、「頑張ればある日を境にもっと強くて賢い存在になれる」とか、「頑張ればいつか自分は変われる」というようなどこか漠然としたポジティブ思考、または未来の明るい希望を想像して今という時間の安心感を得る、というような癖があるように思う。それはそれで悪くはないと思うのだが、しかしどのようなことを妄想してみたところで、複雑な分子マシーンとしての反応時間という物理的制限は越えられないのである。さらに言えば人間の寿命という物理的制限も越えられないのであるから、一生で行える肉体的な仕事の総量も、頭脳的な仕事の総量も、精神論とは関係なく初めから決まっているのである。
また別の見方では、体を、頭脳を構成する分子マシーンは止まることがないので、私が望む仕事をしていても、ダラダラと暇つぶしをしていても、同じ仕事量を淡々とこなしている。
そう考えてみると、または気付いてみると、頑張れば明日、明後日、一年後にもっと素晴らしい仕事ができるなどと空想に浸っている時間や、決意を固めている時間があるのならば、どちらにせよ時間あたりに同じ仕事しかできないのであるから、いまここという時間と場所で、自分がするべき仕事に自分を向かわせる、集中力を積極的にコントロールし物理的に限られた資源をできる限り無駄にしない、その大切さの意味がよりくっきりと見えてくる。
『楕円と円』By I.SATO
返信削除山田龍太さん>コメント有り難うございます。
私のgoo blogに投稿した返信を再掲します。
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佐多岬に無事到達したのですね。日本徒歩縦断の完遂、おめでとうございます。
私は8/3に舞鶴からフェリーで帰宅した後、19日から23日まで妻と京都に出かけていまして、返信が遅れて済みません。
意識、幻覚、クオリアなど、体験に基づく興味深いBlogは読み応えがありまし
。十分に理解出来ていないと思いますが。
ヒトは結局、分子の絶え間ない〝生成と消滅〟という連続する変化によって生きているという生物学者の福島伸一氏の「動的平衡」の考え方に通じるように思いました。素晴らしい境地を経験されたと思います。
「旅」は生命体を揺すり、何かを呼び起こすものですね。
私は子供時代の自転車の持つ世界の広がりを再び体験して心身共に生命体を若く保ちたいという動機がありますが体力がどこまで許してくれるか・・・。
子供の頃の覚えたての自転車の旅は、もう純粋に好奇心の塊でしたよね。今思うと不思議なのが、標識の漢字など読めなかったのに、知らない街まで行って、ちゃんと家まで戻っていたこと。今はその感覚を失っているけれど、まるで犬や鳥のように家の方向を地磁気か太陽か何かをリファレンスでもしながら本能的に把握していたような記憶が。昔の記憶なので確かではないですけど。
返信削除『楕円と円』By I.SATO
返信削除不思議ですね。
自ずと本能的に行動半径は決まっていたのかもしれません。
冒険心との狭間にいて遠出してみたいという欲求と折り合ってたような。
大人用を三角乗り出来た日は嬉しく皆な誇らしげでした。
自転車旅をしていてその頃の遊び友達や今は亡き若かりし頃の両親を想い出します。