2015/09/11

高麗川から海へ



 明日から「高麗川から海へ」の残り2/3を続行し、坂戸市の高麗川大橋から東京湾まで、テントを張りながら一気にカヤックで下る計画です。今まで下った前半のルートは http://ufootprint.umiack.com/?map=y&id=19gp3u9to5xs9lnf&ll=49&ms=2&tr=y です。

 今回は友人である城西大の真野先生、松本先生からのサポートをありがたく受け取っています。

 前後半を合わせて、埼玉県日高市を流れる高麗川の巾着田を出発し、東京都江戸川区を流れる荒川の河口左手にある葛西臨海公園をゴールとした、全長90kmの川下りとなります。前半をすでに延べ3日をかけて下っており、後半は4~5日ぐらいかかるものと想定しているので、全行程で7~8日間の川下りとなるでしょうか。
 その間に、日高市、坂戸市、川越市、東松山市、川島町、さいたま市、富士見市、志木市、朝霞市、和光市、川口市、戸田市、板橋区、北区、足立区、墨田区、江戸川区、葛飾区、江東区という、なんと19もの川に隣接する市町村を通過します。全ての市町村を合わせた人口は640万人。あまりにも大きすぎる数で想像がつきませんが、私が640万人の人々と関わりあうにはいったい何年の月日が必要なのだろうと想像すると、気の遠くなるような思いがするほどの人数です。。
 出発地点の日高市の巾着田から坂戸市川角の城西大学下あたりまでの、2日をかけて下った高麗川の流れは、河川改修工事をうけることなく川本来の自然な蛇行を保っており(文献を調べたわけではなくあくまでも川を下った様子からの勝手な判断ですが)、カワセミやアユやプラナリアなどが生息する水透き通る清流です。
 さらに下ると高麗川は越辺川と合流して越辺川となり、そして入間川と合流して入間川となります。この合流地点あたりから下流は、上流部の自然な蛇行から一変して、まさに人間が恐れ多き自然の大河に挑んできた歴史をあらわす日本代表のような流れとなり、そのさき荒川と合流して荒川となり東京湾まで流れ込みます。遡ること江戸時代の寛永六年(1629)となる368年前に、荒川の西遷と呼ばれる一大事業によって、荒川から利根川が分離され入間川に付け替えられました。僕がこれから下る荒川は、元々は入間川であったということです。地図を眺めれてみれば、至る所で川の流れが蛇行から直線状に改修されていることが、旧河川の名残や市町村の境が描くラインから窺い知れます。さらに河口に至るまでの22kmの流れは、荒川放水路として明治44年から1,300戸を移転させて掘削されました。
 
 いままでは原野や湿原という手付かずの自然の中を流れる川を追い求め、下ってきたのですが、これほどの大都市圏を流れる川を下るのは生まれて初めての体験です。正直なところこれまでは、川を塞ぐ堰やダム、流れを無理やり変える改修工事などは、山川草木鳥獣虫魚を壊すものというネガティブな面だけで捉えていて、例えばそのむかし関東平野に人間がまだ住み着いていなかったころは、いったいどれほどに豊かな自然が広がっていたことだろうと想像したりしていました。実際にそれらは自然を破壊しつくす巨大なエネルギーであることには間違いないのですが、しかしながら里山と呼べるような高麗川を下り、いくつもの堰を越え橋をくぐる体験をしているうちに、これまでの人々がどのような思いでこの川と関わってきたのか、飢えることなきよう願って川の豊かな水を田に引き入れ、死の恐怖に怯えることなきよう願って川の荒れ狂う水を土手で防ぎ流れまでも変えてきたのか、時を越えて垣間見る思いがしました。
 手付かずの自然はそのまま大切に残し、失われた自然を取り戻すよう120パーセントの努力を怠らず、かつ大都市圏においてはいかに人間と山川草木鳥獣虫魚が共に幸せに共存していけるかということを、文化という遺伝子が半世紀前と比べても格段に進化している我々が頭をふり絞って考え出さなければならない、と思うのです。

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