2018/03/28

「原野の旅が地球を守る」。その言葉に込めている意味

「原野の旅が地球を守る」とここに https://camp-fire.jp/projects/view/50450 掲げていますが、その言葉に込めている意味を別の言葉で書き表します。

前回のユーコン川単独行前半では、地平線と空と水しかない世界を独り漂い続けて、それまでとは次元の異なる世界観というものを原野から受け取りました。世界観が切り替わる大きな要因は二つあります。一つは、人間の住んでいないアラスカの広大な原野では、人間社会が物理的に遥か彼方に離れているので、それを客観的に眺めるようになることです。そしてもう一つは、地平線と空と水しかない広大な空間、そして昼夜の曖昧な白夜の世界を独りで漂うので、今までの時間と空間の概念が意味を失い、その感覚が変わってくるということです。

東京に住んでいる人々の2/3ぐらいは現在の地球環境の状況を把握していないと、会話の中で僕は客観的に感じています。だから環境保全を訴える声は知恵を広げるために絶対に必要です。でも僕は資本社会を悪玉として声高に環境保全を叫ぼうとは思えません。なぜならば原野からの視点で見れば、すなわちその新しい世界観では人間もまた自然の一部だからです。

確かに人間は他の動植物と違って高い知能を持ち、その力で他の動植物や自然を利用し、自身を含めて絶滅に追いやっています。だが本当に自分自身で判断してそれを行っているのでしょうか。

この宇宙の仕組みはとってもシンプルでまた不変です。素粒子と重力の数式2つだけで書き表せます。だから地球上の生命が一度絶滅してまた新たに誕生し、そして発生した知的生命体は足が八本で頭が二つある人間とは似ても似つかない形態をしているとしても、ホモサピエンスと同じように化石燃料を発見して利用し、核分裂を発見して利用するはずです。生態系の頂点として他の動植物も食べまた利用するでしょう。たとえ絶滅と知的生命体の誕生というサイクルをあと100回繰り返したとしても、毎回同じでしょう。それどころか他の銀河で発生した知的生命体であっても、そこでの物理法則は変わらないのだから、やはり同じ進化の過程を辿るはずです。ということは、そのような流れはもうすでに決まっているということで、他の動植物と同じく、自分たちの意志の力で選択しているのではない、ということにはならないでしょうか。

脳科学的にみても人間の自由に選択できる意志というものは怪しくなります。一部の科学者は人間に自由意志はないと言い切っている人もいるぐらいです。右か左かどちらの手を使うか本人が判断する7秒も前にすでにその前段階となる神経細胞は活動を開始しているし、また脳へ磁気刺激を加えるだけで自由に選択する傾向を操作できてしまう、という研究論文があります。また物理法則の因果関係を考えれば、脳の神経細胞は外からの刺激に反応しているだけだ、ということになってしまいます。だから自由意志とは幻であり、周りの環境変化を引き金として自動的に発生した自分の行動や思考に対して、こう思ったからこうしたのだと理由を後付けしていることに気付かず、まるで自分で判断しているような気になっているだけである、ということになります。

人間は逃れられない流れの中で、他の生物を侵食して繁殖している。

はたしてそうなのでしょうか。誰の中にでも私は確かに存在し、私は考えています。とても外からの刺激に反応して動いている虫と同じだとは思えません。僕は一割ぐらいの自由意志はあるのではないかと、根拠はないが感覚的に思っています。そしてまだ誰にも本当のことは分かりません。宇宙と意識は最後に残された2つのフロンティアで、いまだ人間の理解の及ばない深淵な領域が存在しているのです。

しかし大体の意味において人間も動植物と同じく逃れられない流れの中にいるという視点に立つと、そこには善も悪もありません。人間の行動を悪とする意味を失ってしまいます。

そしてまた、もっと生々しい人間味溢れる個々人を考えてもそうです。人間は誰でも複雑な感情を抱え、ささやかな幸せを求めて生きる努力をしています。情動で動く動物に知性が付け足されただけの人間は進化途上の中途半端な生き物であり、情動と知性との葛藤が人間らしさとも言えます。そんな頑張っている我々には前に進むための喜びが絶対に必要であり、どうしてささやかな楽しみである美味しい食べ物や娯楽などを悪と否定することができましょうか。

繁栄から絶滅へと進む運命論的な流れから逃れるためには、情動的な動物から意識的な人間への進化をより加速させればよいのでしょう。進化とは体だけではない、人間は急速に文化としても進化しています。地球上の生命を存続させるために必要な進化、そのエンジンは好奇心だと僕は考えています。

好奇心は世界を探究させます。自分が住んでいる町だけではなく、地球全体で何が起きているのか知りたくなります。地球全体の環境の現状を知り、地球全体の人間のことを考え、地球全体での生命の相互依存を考えます。そのうえで資本社会がどう変わっていかなければならないのか、自覚します。個々人の自覚無くしては、選挙で決まる政治を動かすことは出来ません。人類全体の知恵としては目指して歩むべき方向は見出しています。間引くわけにはいかない人口を養うにはどんなに節約したところである一定以上のエネルギーが必要ですが、何世代か後に全てのエネルギーを太陽から得ることができれば、その溢れるエネルギーを元にして温暖化や食料や生物多様性などの問題を解決することができるでしょう。そしてそれは技術的に不可能な課題ではなく、見えています。政治が歩むべき方向はたしかにあるのです。

またその新たな技術を生み出すために必要なのは数学や物理学や生物学などのサイエンスであり、サイエンスとはこの宇宙の仕組みを解明することであり、その原動力はまさに好奇心です。

さらに個々人の幸福という視点からみても、好奇心は大きな喜びをもたらしてくれます。自分の周りを子供の様に注意深く見渡してみれば、自然界には、世界は無限の不思議に埋め尽くされており、好奇心を持ってそれを探究すれば心が深く満たされます。人生を終えるその瞬間まで好奇心を保ち続ければ、喜びはそれに伴います。

「原野の旅が地球を守る」の「旅」は、そしてまた「冒険」はまさに好奇心です。例えば今この瞬間にも多くの日本人の若者が世界一周を目指して自転車をこいでいます。彼らが安定な社会生活の保障を捨てるという代償を払ってまでして国々を巡る理由はそれぞれでしょうが、その根底には人類共通の大きな好奇心が根差しているはずです。地球にとって必要な好奇心を育て上げるのも捨てさせるのも文化や教育しだいであり、地球を守るために我々はそれを大切にしなければなりません。

「原野の旅が地球を守る」の「原野」は、人間がいない場所であり、また本物の自然がある場所です。情動で動く動物の頭脳を再利用しながら知性を加えられた進化途上の人間を、再び戦争という自滅行為に走らせないためにも、また地球環境を破壊しつくして自滅するのを避け最良と思われる道を歩ませるためにも、ホモサピエンスという自分自身をよく理解する必要があります。理解するには自由意志だと錯覚していて実は社会に条件付けされていた思考や行動から一度抜け出す必要があります。そのために必要な社会から離れる場所は、人のいない原野しかないのです。

また人間の知恵とは、自然を、宇宙を学ぶこと以外の何物でもありません。本物の自然に分け入り本物の自然を観察することが、絶対的に必要なのです。

さらに原野とは自然が生態系を保ったまま生存できる唯一の場所です。多様な生物種の絶滅を防ぐためには原野が必要です。虫や動物がいなくても生きられると思うのは、単に知らないだけです。細菌まで含めて生物はお互いに密に影響しあっており、その全容は複雑すぎて解明のしようがありません。生態系のバランスを失うことがどのように人間の生存に影響してくるのか、まったくの未知数なのです。

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