2022/12/04

Annapurna Base Camp 4,130 meters

 I trekked up to Annapurna Base Camp 4,130 meters among Himalayan, Nepal, with Mani Aryal for the first two days, by myself for the next two days, and joined University of Sunderland team for the last three days. That elevation was my record breaking.

You might be able to imagine how it was wonderful that I climbed as not a foreigner with a guide but one of Nepali locals just enjoying their own mountains of the highest in the world. My unforgettable memory it is.








2022/10/25

Dichotomy

 If I write what I see here in Nepal as it really is, I can't go wrong. However, when my evaluation is added, because there is no one who can see the whole world, I know that mistakes migh be made there. Under such circumstances, one thing that seems to be correct is that the idea of ​​dichotomy between developed countries and developing countries, western countries and non-western countries only comes from the limits of human cognitive ability, and it might be the source of our mistakes.

2022/10/13

I could enter into Nepal finally.

10 days after I had left Japan, finally I could come to my destination, Duhabi, Nepal. Due to a not accurate information of Nepal government for changing a role (Japan embassy in Nepal also didn’t know that) I couldn’t enter into Nepal through the border at Bagdogra, but thankfully it gave me good opportunities. I had wonderful experiences, that visiting Jogbani town and Bheriahi Salona village where were at deep inside India as tourists can never visit, home stay in both, encounter wonderful peoples and joining Hindu engagement ceremony. Needless to say, those were based on hospitalities of Vishal and a lot of his relatives whose discussed to make my way India to Nepal, traveled with me and providing their homes to stay with treating me as if I were family.
I am making vlog on YouTube.












2022/10/04

Could not across an India Nepal border

 I could NOT across an India Nepal border!

Although I flew to India and took a train to India-Nepal-border at Bagdogra with long journey of 16 hours flight and 34 hours railway, an information from a website of Nepal Ministry of Tourism was something old and finally I could not get a Nepali visa at an immigration office in there. Things do not always go the way you want them to, but it gives you an another opportunity, I believe. I will try another land border later, though there is a just poor information since an immigration office and an embassy have not answered telephone call.



2022/09/24

デリー

はじめての海外旅行で降り立った空港が、五日後に再来するインドのデリーだった。あの頃は、知らない世界をただただこの目で見てこの体で体験してみたかった。まあ20代を地で行っていたわけだ。今回はというと、世界の本質を知りたくて、デリー経由でネパールへ行く。これもまた、人間というものを地で行っているだけだ。宇宙の本質、生命の本質、社会の本質、何が覗けるか。

2022/09/23

Itinerary to Nepal

 My itinerary to Nepal. Since an air fee Tokyo - Delhi is 1/3 of Tokyo - Kathumando. What I should consider using this route is that they say I, who is not Nepali, can go through only 6 permitted border gates between India and Nepal, although Nepali can easily use more without visa.

I’m just wondering why I don’t hear Nepali use the plane from India to Tokyo (even if using Kathumando Air Port they have to use a bus from their town to).



2022/09/17

気軽に本格的珈琲を家で焙煎する方法

ふと思い立って、自分で飲む分の珈琲を焙煎する時に動画を撮ってみました。気軽に本格的珈琲を家で焙煎する方法です。珈琲は奥が深いのでたった一本だけの動画だで説明し切るのは不可能ですが、おおよその流れはわかると思うし、ぜひ気楽にチャレンジしてみてくださいね。



2022/09/13

エキストリームコーヒー by フラッシン

このブログで二つ前の記事に書いたエキストリームコーヒーの呼びかけに、友達のフラッシンが早速の反応をしてくれた。空気の綺麗な山形県のとある山で、満月の未明に街灯りを見下ろしながらの珈琲ドリップ。素晴らしい!いやぁ、一緒に飲みたかった。珈琲送ります。






日本徒歩縦断のデータのまとめ

日本徒歩縦断のデータをまとめた。

GPSで記録していた実際に歩いたルートがこれ

映像はこれ

北海道宗谷岬から鹿児島県佐多岬までの3,517kmを161日かけて歩いた。一日の平均距離は25kmであった。

人間の体は歩くことにたいへん良く適応しているらしく(考えてみれば動物として当たり前の事ではあるが)、3週間ほども歩いていればその内にあちらこちらに現れては消えていた痛みは和らいでいき、毎日一日中歩くのも普通の生活となっていく。誰であってもそうなのであろう。たかだか数百年前は九州・四国・本州と全国を闊歩するのが普通だったのだ。もし道半ばで断念するとなれば、ほとんどのケースで現代の生活に染まってしまった心がめげるのが原因となるのではなかろうか。

歩くことの最大の特徴は、その速度だ。車はもちろんのこと、例え自転車旅行であってもその早さゆえに、目的地から目的地(観光地から観光地)という点から点への移動となってしまい、目まぐるしく思考も視点もあちらこちらへと飛びまくる普段の生活と、そう大きくは変わらない。しかし1時間歩いてもたったの4キロしか進めない徒歩だと、物理的に観光地巡りは無理であるし、山などの自然の表情はあまりにもゆっくりと変化するので、旅は「飛び飛び」ではない線、すなわち旅の全過程が旅となる。そしてまた歩くのも寝るのも体と心を目一杯使う冒険なのだから、旅は24時間休むことなく続く自分自身との対話となり、それはやはりグリグリっとマジックペンで地図に書いた線なのであり、地図に刺したピンではないのである。

暑さ寒さを避けて春に鹿児島を出発し夏に北海道へ辿り着く時期とコースを選択すれば、ごく普通の体力がある人ならば、1日30km歩き休息日を12日取って、合計133日で日本徒歩縦断ができるのではなかろうか。大学生などはぜひやって世界の本質を追求してほしい。

[全体]

北海道宗谷岬から鹿児島県佐多岬

3,517 km

161日

休息日と停滞日を除いた日数は141日

休息日と停滞日は20日

休息日と停滞日を除いた平均一日歩行距離は24.9 km

[2022年]

宮城県船岡から鹿児島県佐多岬

2,129 km

79日

休息日と停滞日を除いた日数は73日

休息日と停滞日は6日

休息日と停滞日を除いた平均一日歩行距離は29.2 km

[2014年]

北海道宗谷岬から宮城県船岡

1,388 km

82日

休息日と停滞日を除いた日数は68日

休息日と停滞日は14日

休息日と停滞日を除いた平均一日歩行距離は20.4 km

[日本徒歩縦断の一般的な日程とコースの予想]

暑さと寒さを避ける最適な日程とコースとして、春に鹿児島県佐多岬を出発して北海道宗谷岬を目指す

一日で29.2 km歩くとすれば、3,517 km / 29.2 km = 121日

休息日と停滞日は12日

合計133日

2022/09/10

尾瀬

 久しぶりにエキストリームコーヒーを尾瀬の至仏山で。尾瀬に入ったのはこれが初めてなんだけど、ホー、ナルホド、ここが尾瀬か。これだけ広い湿原がこの標高にネ。皆なが好きな理由がよく分かるなァ、って話つつ。山はガスってたけど、自分の空間位置がよく掴めない浮遊してる山行もまた好きだし、珈琲も美味かったし。水平方向の歩きが続いたけれど、久しぶりの垂直方向への歩きだった。

今思いついたけど、エキストリームコーヒー動画を撮って提供してくれたら、冒険ごころに敬意を表してウミアック・アドベンチャー珈琲を進呈します。






2022/09/08

ウミアック珈琲の焙煎を再開しました

ウミアック珈琲の焙煎を再開しました。私自身が、その時々の豆をじっくり観察しながら、一パッケージごとに手鍋で完全な手焙煎をします。アドベンチャーがお勧めです。自信作をお召し上がりください。



同じ体験は二度しない

 同じ体験は二度しない。

一度気がついてみれば当たり前のことなのだが、何かを体験することによって脳は不可逆的に変化するのだから、または脳という物質的なものを説明に持ち出さなくてもその記憶は心を不可逆的に変えるのだから、過去と同じ体験は再現されない。昔を振り返りあの経験をもう一度と望んでみたところで、その願いは叶わない。それはまた、何をいくら経験してもまた未来には新たな経験が待っていることを意味する。

2022/09/02

半導体プロセスは誇大広告?

「Appleの次期半導体は台湾TSMCで最新の『3』ナノメートル・プロセスにより製造」などのニュースをそのまま読めば、いまだ半導体の指数関数的進化を謳ったムーアの法則は終わる事なく続いておりAIが人間の知性を凌駕するシンギュラリティが迫り来ているのだと、恐れと興奮を覚える。

だがその『3』は、実はもはやただの広告だ。IEEEのInternational Roadmap for Devices and Systemsに書いてあるように、それは『24』クラスと言えよう。JAROに誇大広告で訴える?(シリコンウェハ積み重ねや素子効率化により、世代進化はしている。だが指数関数的増加と一次関数的増加は将来像が全く異なり、ナノメートルという言葉を使うのは大いなる誤解を生むだろう。)

科学も技術も加速度的に進化しているのは間違いないが、世界の『妄想』もまた加速度的に成長している/する??

※3ナノメールとは原子30個分の長さ。つまり原子30個を並べた構造物で電流である電子をコントロールできるか、という世界。極限の世界に近い。0.1ナノメールは原子1個分なので、それ以下の半導体は原理的にありえない。

2022/08/22

コツコツと積み重ねる意味

  今回の旅は予想以上に困難な旅となった。真夏に歩いて日本を縦断するというのは、真夏に野山を歩くのとは異なり、また江戸時代のように歩くことを前提とした街づくりがされている国を歩くのとは異なり、焼けたアスファルトの上を休憩する場所もなく寝る場所もないままに歩き続けるということだった。一日に何リットルという水分をとり、その分の汗をかき、それが何週間も続くという体験であった。

 この経験を通し気づき直したことがあった。人間は化学反応で動く複雑な分子マシーンなのである。

 一日30km以上歩くのだが、その運動で発生した熱を夏の暑い大気中へ放出しなければ、生命機能を維持できない。汗をかくことで体から熱を逃さなければならない。必要な汗の量は運動量と気温に比例し、その量は意志とは関係なく物理的に決定される。何リットルも水を飲むことになるのだが、その水を腸で吸収して、血液に取り込み、ミネラルを追加し、皮膚の汗腺から汗として出すその機能は、すべて生体分子が決められたエネルギーと決められた時間を消費しながら実行する。状況に合わせてちょっと無理をして一日に50km、60kmと歩きたくても、その運動量に見合った水分を取り込み汗をかくという内臓の機能が追いつかなくて、できない、または一晩の睡眠では体力を取り戻せないという実感があった。

 そうなのである。人間が生きるということの基盤である生体分子の化学反応は、ある一定の時間とエネルギーを必要としている。それは人間の意志とは関係ない。どんなに熱い「情熱」を持っていようが、どんなに「根性」を示そうが、そのことで化学反応の速度が僅かでも早くなることは決してない。スポーツ選手のように日々トレーニングを積み重ねれば、分子マシーンの数が増えることで汗をかき熱を放出する総量は増えるはずだか、それは分子マシーンの数が増えることであって反応速度が早くなることではない。またその総量としての変化を得るには数週間以上の日数がかかるだろう。

 その物理的な制限に思い当たった時に、一つの気づきが形を見せ始めた。人には、「頑張ればある日を境にもっと強くて賢い存在になれる」とか、「頑張ればいつか自分は変われる」というようなどこか漠然としたポジティブ思考、または未来の明るい希望を想像して今という時間の安心感を得る、というような癖があるように思う。それはそれで悪くはないと思うのだが、しかしどのようなことを妄想してみたところで、複雑な分子マシーンとしての反応時間という物理的制限は越えられないのである。さらに言えば人間の寿命という物理的制限も越えられないのであるから、一生で行える肉体的な仕事の総量も、頭脳的な仕事の総量も、精神論とは関係なく初めから決まっているのである。

 また別の見方では、体を、頭脳を構成する分子マシーンは止まることがないので、私が望む仕事をしていても、ダラダラと暇つぶしをしていても、同じ仕事量を淡々とこなしている。

 そう考えてみると、または気付いてみると、頑張れば明日、明後日、一年後にもっと素晴らしい仕事ができるなどと空想に浸っている時間や、決意を固めている時間があるのならば、どちらにせよ時間あたりに同じ仕事しかできないのであるから、いまここという時間と場所で、自分がするべき仕事に自分を向かわせる、集中力を積極的にコントロールし物理的に限られた資源をできる限り無駄にしない、その大切さの意味がよりくっきりと見えてくる。

2022/08/21

「旅とクオリア」の補足

前回の投稿「旅とクオリア」の補足:

 クオリアは同一性を担保するという機能があって、一度薔薇の赤のクオリアを認識したら、その薔薇が置かれた部屋の照明の色温度が変化したとしても(蛍光灯から太陽光へ変わっても)その赤の質感は変わりません。カメラで写真を撮る時には色温度を調整しなければならないのに、目で見る時にはそんな必要がないのは、そういうクオリアのカラクリがあるからです。

 時間と空間もクオリアで、いつでもどこでも時間と空間の質感は同じです。ただそれは同一人物内だけでの話しで、いまこれを読んでいるあなたが果たしてどのように空間を感じているのかは、僕にはまったく分からないですけど。

 昔一緒に山を縦走した人が、Aという山を通過してからもうすでにピークをいくつも乗り越えていたのに、目の前にそびえる山をAだと言ったのですが、明らかに空間の捉え方が僕と違ったのでしょう。また生まれてこのかた片方の目が見えない人が、僕と同じ三次元空間の質感を持っているのかどうかは定かでありません。

 一泊二日程度で車で移動する旅ならば、その人の時間や空間の質感は担保されていて、変わりません。まあ知らない土地を楽しんだというだけで、世界観までは変わらず。だけど何か日常を超えるような状況での旅やチャレンジであれば、たとえばアラスカでカヌーを漕ぐなど、または千キロにでも達するマラソンにチャレンジするなどでもすれば、本来同一性が保たれているはずの時間と空間のクオリア(質感)までもが変化するので(地平線しか見えずまた日の沈まない白夜の世界で数週間も過ごす、などした結果として)、たんなる気晴らし旅行ではなく、己の世界観がガラリと変わる、と。意識の主要素であるクオリアが変化するので、意識レベルで変化が起きると。いまここにある私の意識そのものの変化です。

2022/08/20

旅とクオリア

 徒歩の旅。カヌーの旅。自らの足による、自らの腕による、己の体を使った身体性を伴う旅。人はなぜ旅をするのか。旅は何を我々に見せてくれるのか。旅は動物に組み込まれた4億年の歴史をもつDNAの好奇心なのか。旅は人類の未知なる宇宙への探検なのか。


 旅はワクワクするものだ。子供のころ覚えたての自転車に乗ってまだ知らぬ隣街を探検すれば、そこには見たことのない真新しい世界が待ち受けている。そんな冒険へといざなう逆らいがたい好奇心は、大人になっても変わることなく続く。旅をすれば新しい世界に出会う。旅をすれば「世界観」が変わるのだ。これが世界の全てだと思っていたのにそれとは異なる新世界が、または「いや世界はもっと広いはずだ」という直感は得ていたもののそれがいったい何者なのか具体的には想像できずにいた新世界が、ペダルを漕ぐたびにグングンと地平線の向こうから飛び込んでくるのだ。


 旅をすれば変わる世界観。その「世界」とは何だろうか。


 はじめて北海道を旅してみる。はじめてインドを旅してみる。そこには今ままで慣れ親しんできた我が街とは異なる地形が天候が人々が街並みが広がっている。いまだ見たことのなかったその世界を、見ることで嗅ぐことで触ることで聞くことで味わうことで、その新鮮さを楽しむ。旅をすることで「私の周りに広がる世界」が変わる。私はその新しい世界を楽しんでいる、私の五感で「直接」に。

 「直接」……いや、果たして本当にそうなのか。私はいま見ているその世界を、ありのままに直接見て感じているのだろうか。まるでカメラが動画を撮影するように、ありのままを直接知覚しているのだろうか。


 コンピューターで車の衝突をシュミレーションする時は、その構造や材質を数値へと変換して入力し、車や衝突対象の変形という実世界での出来事をコンピューター内で再構築する。気象をシュミレーションする時は、地球の表面を細かいグリットに切り分けその気温、気圧、湿度、風速、風向きなどを数値へと変換し、大気の動きという実世界での出来事をコンピューター内で再構築する。現実世界をコンピューターで扱える数学の世界へと変換(写像)するのだ。では我々が外界を認識する時も、シュミレーション同様に外界を脳内へと写像し再構築しているのだろうか。

 いやそうではない。ある建築物を見ているとしよう。目というカメラの網膜という撮像素子が捉えたピクセル情報を、脳内で再構築、または再上映しているのではない。建築物の構造をXYZ軸の立体的な座標として抽出し、脳内の仮想空間で再構築しているのでもない。その建物を構成している石材の暗褐色という質感、その表面のザラザラとした質感、柱の直線という質感、ドームの円弧という質感、それらクオリアと呼ばれる質感が、脳内で写像されるのではなく「新たに」立ち上がるのだ。そしてそれらの色やテクスチャや形から総合的に、それが教会であると解釈する(志向的)クオリアが「新たに」立ち上がる。そのクオリアを意識が感じることで、「ああ、あそこに教会がある」と我々は知る。私の意識は外界を直接見ているのではない。私の意識は脳内で絶え間なく湧水のように噴き出し流れ落ちるクオリアを見ているのだ。だから例え私とあなたが隣り合って同じノートルダム大聖堂を観ているとしても、私が今観ている私の脳内で作り上げられたその教会と、あなたが今観ているあなたの脳内で作り上げられたその教会が、まったく「同質であるとは言えない」。もっと単純には、同じ薔薇の赤色を見ていても、それを同じ質感として見ているとは言えない。そして私とあなたのその主観的な世界を比較する手段を、我々は持たない。


 まるでカメラが撮影するように私も外界を見ていると感じるのは、そう勘違いしているのは、外部の世界と脳内で作られた世界像が、日常生活のなかではなんの支障も生まないほどに良く一致しているから、とても「よく出来ている」からである。だが錯覚や幻覚という非日常的なケースを通して、じつはそれが勘違いだったと気付く。一例を挙げれば、歳をとり網膜が傷ついて視野の左半分を光学的に失っていても、多くはその事実になかなか気づくことが出来ない。なぜならば脳は実際には見えていないその左半分の景色を、無意識下で自動的におそらくこうであろう景色として「でっち上げ」、その空白を埋めてしまう。我々の意識はそのよく出来た「でっち上げ」をそれと気付かずに外界の写像として知覚してしまうから、視野の欠損に気付けない。しかしよくあるケースとして、脳はその空白の見えていない空間に、実世界には存在していないものを描き出すことがある。たとえば小人。存在するはずのない小人が視界に現れて動き回るものだから、初めて患者は幻覚を見ていることに気付き、頭でもおかしくなったのかと医者を訪ねて、そして視野に欠損があるのだと検査で気付く。その小人は実世界の何者以上に「リアル」だそうだ。このケースからも解るように、「リアル」に感じている今まさに観ているその世界は、ある意味全て幻覚なのである。


 私が徒歩で日本縦断した時のこと、鹿児島県内の峠を一人、真夜中の3時ごろ歩いていた。鹿児島の夜は暗い。峠道には街灯がなく、折り重なる山の向こうに街の薄い灯りが見えることすらない。月も地平線の下に沈んでいた。唯一の光はヘッドライトなのだが、電池節約のためにローパワーモードで照らしていると、世界にはぼんやりと白く霞んだ道路の白線しか浮かんでいない。連日の寝不足も重なっており、やがて白線以外の真っ黒な空間に、はっきりとはしていないが色と形をもった幻覚が現れ始めた。生まれて初めての経験であった。歩き続けているので意識ははっきりしている。「ああ脳は、暗闇の部分に何も見ないというのが苦手なのだな」と考える余裕まであった。しかしながら、なんどでもなんどでも繰り返し幻覚が現れるのである。身体が幻覚の方へと引き込まれそうになるので、道路から転落しては大変だと道路脇の安全な場所で30分睡眠をとったら、それきり現れなくなった。形がはっきりとしない幻覚ではあったが、頭の中に記憶されている何かの物体を映し出そうとしているのだな、これが夢であるならばそこに何があるのか認識してしているのだろうな、という予感はあった。


 世界の脳内表現。それは英語での「表象」(Representation)、再び(Re)表現する(Presentation)ではなく、ドイツ語での「表象」Vorstellung、前に(Vor)置く(Stellung)というニュアンスに近い。変換し再表現するのではなく、新たに一から作り上げてぽんと前に置く。それがクオリアである。我々の意識は世界の全てをクオリアとして認識している。「時間と空間」ですらクオリアなのである。


 アラスカの原野をカヌーで旅する。日本の端から端まで徒歩で旅する。それらは、生まれてこのかた経験してきた世界=「時間と空間」とは異なる世界を旅することである。そして私の意識のなかで立ち上がる「時間」の質感(クオリア)が、「空間」の質感(クオリア)が、不可逆的に変化することを実感する。私の意識の中に今ここで立ち上がっているイキイキとした世界は、その時間と空間の質感は、今まで想像し得なかったものへと変化していく。それはまさに『世界観が変わる』という表現がふさわしい。


 日常とは少し異なった世界をその目で見る束の間の経験。そんな程度のものではない。あなたの中に構築された、いまリアルにあなたが生きている世界そのものが、「世界観」が変化する。


 しかし私という意識が主観的に体験するそのクオリアは、どういう手段を用いても他人に伝えることが困難で、強いもどかしさを感じるものだ。もしあなたが私の体験と同じものを得たければ、同じくアラスカを漕ぐしかない。しかしまた例えそうしたとしても、それが同じ体験であったのかどうかは証明不可能である。


 旅によって私の外界に対する世界観も変わるが、私の内界に対する世界観も変わる。旅は自分を映す鏡だ、ということは皆よく知っている。旅は自然との対峙でもあり、それは時に旅人を優しく包み込み、時に旅人へ荒々しく襲い掛かる。身体的にも精神的にも、様々な苦痛や喜び、そして忍耐や試練に立たされる。冒険の成否はいかに冷静に自分自身をマネージメントするかにかかっている。おのずと自らの心や身体の詳細な動きに集中するようになり、私が今どのようにそれら痛みや喜びや苦しみや興奮や落ち込みを認知しているのか、ということを認知する、すなわち認知を認知する「メタ認知」(meta-cognition)、言い換えれば客観的にまるで他人事のように外から自分の心と身体を眺める能力(脳機能)が日々24時間使われ、同時にトレーニングされる。そのことで自分の内面世界の豊かさを徐々に認識するようにもなり、またメタ認知の機能自体も徐々に強化される。

 メタ認知もまた主観的な体験でありその定義や説明は困難である。しかしそれが何であるのかを気付いている人にとっては、メタ認知の深まりが私の世界の豊かさに繋がることを、確信のように感じているのではなかろうか。このような側面からも旅は人の内面を豊かに育てるのだ。


 クオリアがどこからどのように生まれるのか、それは深い謎でありサイエンスとして解明できる目処は今のところ立っていない。同義で私の意識がどこからどのように生まれるのか、それは深い謎でありサイエンスとして解明できる目処は今のところ立っていない。馴染みのある話題で言えば、人工意識を作る手段は、そもそもそれがあり得るのかすらまったく見えていない。

 

 私の意識とは何か。私はなぜ生まれたのか。私はなぜこの宇宙に存在するのか。

 私の存在の不思議に目を向けた人は、おのずと私が存在する宇宙の存在にも興味を向けざるを得ない。なぜ宇宙は生まれたのか。なぜ宇宙は存在するのか。

 私の存在という謎は、覗き込んだ井戸の底に宇宙が見えるほどに深く広い。宇宙の存在という謎も同じように深く広い。両者は絡み合っている2本の糸のようでもあり、または繋がった1本の糸が折り重なりヨレているだけなのかもしれない。それは夜空に浮かんだ空想にすぎないのかもしれず、またはいずれ誰かに発見される海岸の煌めく小石なのかもしれない。それは遥かな昔からのホモサピエンス最大の謎であり関心であり、もしかしたらホモサピエンスをホモサピエンスとして動かしている最大のエネルギー源かもしれない。

 人が大地を旅するのも、私の存在や宇宙の存在の答えを求めて旅をするのも、その根底には生命のイキイキとした躍動を生む共通した力学があるような気がしてならない。

2022/08/15

躍動する半島

日本徒歩縦断の達成後、いったい我は何を感じたのか。その晩は佐多岬で夕陽を眺めていた10人ほどが帰った後も、たった一人だけで街灯ひとつなく自然の明かりだけに優しく包まれた岬に留まり、朝を待った。真夜中に見下ろす大海原が月に照らされて黄金色に揺れるススキの原のように輝いているのを見た時に、今夜ここで世界が終わるとしても満足だという感覚が、心へ静かに、しかし拭いようもないぐらいにしっかりと染み渡っていった。

しかしそれは表面的な一つの出来事であり、より深くは達成後に坐禅の一つでも組み身体の中からじわりと滲み上がってくるものをしっかりと観察する事で得られるのだろう。慌てる必要はない。我という自然の産物の中にはチタンの轍がすでに掘られている。

真夏日の佐多岬。暑い。夜も大地に蓄積された熱で寝られない。しかし人間の狭い快適温度などいったいどれほどのものなのか。夕陽に染まった沸き立つ入道雲。溢れる地球の生命感。真冬の吹雪に凍てついた雪山の美しさと対極的にまた、暑さに悶え太陽のエネルギーが躍動し流動する太平洋へと突き出た半島は、あまりにも美しい。

I made it

I made it, Walk Across Japan End to End. It might be 3,500 - 4,000 km in total.

They say Japan is a small country of islands. But, checking it by my own foot, I can say that it is not true. Japan is vast, so vast. And additionally I can say that our Earth is more and more vast than we imagine.

Walk and Journey. Both have been embedded into animal’s mind and body, including a human. Those are you. You are those.

日本徒歩縦断を終えたよ。

日本は小さな島国。誰が言ったのか。ほんとうは、日本はでっかいでっかい大地だった。この国自体が一つの世界だった。

歩く。そして旅。動物にとって、人間にとって、それらは精神と体に組み込まれたもの。それはあなた。あなたはそれ。

旅先で知り合い、また地元から、元気と知恵をくれた皆んな、ありがとう。

だいぶ歩いたねー。

2022/08/12

Only 100 km left

Only 100 km left!

I see erupting Mt. Sakurajima right in front of me. That is amazing activity of our earth.





2022/08/11

宇宙人ではない

生まれて初めて夜空に、オレンジ色に燃えながら「落下」するのではなく、重力に逆らって「上昇」する何かを見た。未確認飛行物体だ、火星人だ!っと大騒ぎする前に、冷静に考えてみよう。ここは鹿児島。目の前右手には薄く噴煙を上げる桜島。どうやらあれは生まれて初めて見る種子島宇宙センターから打ち上げられたロケットのようだ!感動である。

2022/08/09

鹿児島と幻覚

 I’m just stepping into Kagoshima prefecture, the LAST ONE. There’s around 200 km left to goal.

凄い体験をした。生まれて初めての幻覚。

鹿児島の峠は真っ暗だ。ヘッドライトを消すと、黒画用紙にピンで孔を開けたようなはっきりした星々が地平線にまで見える。そして月が沈んでいたので、ヘッドライトを消すと全く何も、何かの気配すら見えなくなる。

電池節約の為にヘッドライトを一番暗いモードにしていると、世界には薄ぼんやりとした道路の白線しか浮かんでいない。午前3時ごろ、強い眠気を感じながら歩いていると、白線以外の何もない空間に幻覚が見えるようになった。歩いているから意識はしっかりとしていて、おぉぉ……幻覚だ!凄い……と思える。形ははっきりとしないし、色もはっきりしないので、小人が見えるというような具体性はない。しかし記憶の中から引きずり出してきた何らかの物であろう予感のする、これが夢であったら疑うことをしないので何かがそこに存在しているのであろう予感のする、そんな不特定の何かが空白の空間に次々と現れる。脳は刺激のない空間に映像を見ないことを得意とはしないようだ、というようなことを考える余裕はあった。

歩き続けていると、何度でも何度でも幻覚を見る。意識がそこに集中しそうになる。そして「体」もそこにフラフラと持っていかれそうになる。映画とかで見たことのある、幻覚を見ているだけではなく追いかけて山の崖から落ちようとしている、そんなやつだ。道から転げ落ちるとたいへんな事になるので、ヤバイヤバイと道路脇の安全な場所で30分睡眠を取ったら、それっきり見えなくなり、そして朝の薄明かりを迎えた。






2022/08/05

泊めていただける方探しています

 日射が暑すぎて昼間は歩けず夜歩いているのだが、睡眠が取れない。森がないので昼にテントで寝るのはできず、またタイミングよくホテルがあっても朝チェックイン夜チェックアウトができない。どなたか下図の青色のルート上で泊めて貰える人を紹介してくれると大変ありがたいのですが(直接私にご連絡ください)。

写真は熊本県宇土市、夏の朝焼け。




2022/08/03

Fever

 Once, I wrote I got fever, was with 38.6 degree and the runs, but, now I am fine. Sleeping cured it. I am experiencing that, in summer in Japan, a trekking in urban area is more difficult than in nature.

2022/07/30

Last two

 Stepping into Kumamoto prefecture. There are last TWO prefectures ahead of me, Kumamoto and Kagoshima. 300 - 400 km remaining. 

Picture: A sunset of rain.






2022/07/29

クオリア

 いま縦断中ですが、フラッシンさんとの対話の一部分としてこれを書いています。これだけ読んでも筋が見えないかもしれません。歩きながらなのでラフな文章ですがごめんなさい(と言いつつ、それはただ言い訳にしかならないですけどね)。

子供のころまだクオリアという言葉を知らぬままに不思議に思っていたのは、色、でした。この僕が見ている赤という色は、果たしてA君が見ている赤と同じだろうか。もしかしたら僕が見ている青を、A君は赤として見ているかも知れない。ただ生まれてからこの方その「青」が炎の色であり血の色であるから、その「青」が情熱の色であるという共通の間隔が生まれているだけかもしれない。しかしこのことは伝えることも話し合う事もできないから、確認しようがないな。

いま毎晩テントで寝ているので、二酸化炭素の匂いを感知して蚊が寄ってきます。蚊には二酸化炭素のクオリアがあるのだろうか?もし私の脳に二酸化炭素センサーを直結したらその匂いはどのようなクオリアになるのだろうか?甘くも酸っぱくもない、ではどのような質感?二酸化炭素の濃度が高い方向に進む電気回路は作ることができるが、その電気回路に二酸化炭素の質感があるとは思えないし、ましてや意識があるとは思えない。では人間に比べて遥かに単純な神経回路を持つ蚊には意識があるのか?もし蚊には意識がないとすれば、同じ神経回路が大規模になっただけの人間に意識があるのはなぜなのか?

宇宙の大部分は暗黒物質と暗黒エネルギーで占められているようだが、そのように観測されているが、ここまで物理法則を解明してきているのに、さらにさらに奥が深い宇宙とは何ものなのか?

不思議だらけの宇宙です。神秘だらけの世界です。

2022/07/28

4 km tunnel

 It was the longest tunnel in my walking history. Its length is around 4 km and we need one hour for walk through it. There was restrooms, Starbucks and a books store.

It had a perfect sidewalk separated from cars by a cage. But walking in it which was just straight and had eternally feel long length, narrow 70 cm width being wedged between a concrete wall and the cage, I felt dizzy and I remembered my other life when I was broiler.

暑さとスコールを避けるためにたまたま通りかかった図書館へ逃げ込んだが、そこで歩きの大家で民俗学者の宮本常一先生の対談集を読む。夏は昼寝て夜歩け、と木賃宿で先輩から習うそうな。今はないなあ、昼に寝れる場所。そんな事を考えながら山道を歩いていたら、(たぶん)芭蕉が道脇に生えていた。本州では見かけなかったなぁ。なんとなく南国ちっくな九州である。







2022/07/26

クオリア

「何でしてるの?」とはよく聞かれること。答える理由はもちろん借り物ではない本人の言葉。しかし「脳は後付けで理由を考え、そして信じ込む」という知識があるからなのか、それともそういう知識がなくとも感じることなのか、さらに深いところに隠れた動機の気配を感じている。そしてそれは私だけではないかもしれない。

本当は子供の頃から何も変わってはいないのかもしれない。いや、そもそも本当は人間は子供の頃から(子供のころ形作られたクオリアから)変われないのか。結局のところ、小学生のころ考えていたクオリアの不思議、それを追い続けているだけなのだろうか。

何人か、同じようにそれを定義する言葉の存在を知らぬままに、子供のころ不思議に思っていた人に出会ったことがある。

佐多岬が手の届く範囲に入り、何か纏めでもするように頭に浮かんできた。

と、書いている側から思うのだが、追っているのは、意識しているのは間違いない。






2022/07/24

Kanmon channel

 I’m walking an under sea tunnel of Kanmon channel from Honshu Island to Kyusyu Island which is the last island of this journey. Its length is around 800 meters and depth is 60 meter under sea.



2022/07/21

山五つ分

 山口の森は深く美しく、蝉が泣き叫び、海が陸へと進出して肌にまとわりつき、止まった時はベタリと張り付き、境目のない生死は溶けあい、石臼の思考は惰性で動き、まるでジュラ紀の生命溢れ躍動する、そんな混沌とした大地の上で、今日は山五つ分ほど進めそうだ。

2022/07/20

廃道

 歩く事でしか分からない批判を一つ。

批判=ネガティブではないぜ。人の仕事のうちの一つ。

お片付けが出来ない国土交通省。どうも幼稚園生にも出来るお片付けの発想が、完全に国交相にはないように思えるのだが。新たなバイパスやらトンネルやらで不要になった旧道は、閉鎖だけしてアスファルトもガードレールも法面(コンクリートで固めた斜面)もほったらかし。そんなのばかりを見てきたんだけど、この旅で。

数十万年たったら自然崩壊するからそれに任せるつもりなのか、そもそも全く片付ける発想がないのか。

動物は法面を移動できないよね。道路を作るだけ作っておいてお片付けしなければ、大地をさらに細かく切り分けていき、彼らをどんどん追い込んでいく。

景観ってのは人間の勝手な発想で自然にとっては関係のない事だけど、人間としても、美しい山や海岸に爪痕として何十万年も残る線は、とても残念。



2022/07/16

Singing sand

 Singing sand sings “Qu. Qu. Qu.” like a beautiful instrument 🎷 

My body sings “Creak. Creak. Creak.” like a old rusty robot 🤖 

I’m walking Kotogahama (琴ヶ浜).





2022/07/14

Izumo 出雲

 I’m walking in Izumo (出雲). It’s might around 3,000 km walk in total so far, daily walks have been 25 - 40 km.

Precocious rice berry is growing up.





2022/07/11

木を植えましょう

 まだ夏至が過ぎてから日が浅い。四時過ぎから十九時過ぎまで、毎日お天道様の下で、アスファルトの上で暮らす。降り注ぐ太陽の光は、生命の全ての源。足りてないのは森、森、森。

『熱中症に気をつけましょう。水分を補給しましょう。クーラーを適宜に使用しましょう。』それはそうなのだが、もう少し長期で考えて。『熱中症に気をつけましょう。木を植えましょう。水分を補給しましょう…』



 



【Movie】 Sound of rolling stones. Hear.


素敵な景観よりも(それを見たければ観光をすればよいのだから)、むしろ心象を聞きたいのでは。


容赦なく降り注ぐ太陽。赤錆びた小橋。

それが旅なのかもしれない。


凍てついた雪の湿原。時のない地平線。

それが旅なのかもしれない。


詩人は、けして言葉にはならないものを掴もうと、永遠の旅を続けるのだろうか。写真家は、けして撮れないものを掴もうと、永遠の旅を続けるのだろうか。



2022/07/08

Camel

 My camel friend, Hikky, has leaved me just few hours ago as said “I will go my way. Ryota, you have to go your own way depending on your strength only, you understand?”

He might walk for Mare Tranquillitatis. Now I can see only his hip when looking up at the sky.

Now, I lose my direction…Help…Water…

Once again, I looked up at the sky, and saw several billion camels were making a single line to the Moon.





稀有な体験

 徒歩縦断という稀有な体験をしているのだから(素晴らしいという意味ではなく稀なという意味で)、報告するのはある意味義務に近いのだろう。いま行政に関わっている人、これから関わっていく人、未来のために解決策を考えていって欲しい。

『夏の道路の問題』

遮る緑のない太陽光を吸収し赤外線を放出するアスファルトやコンクリートの道は、まるで上下に石英ヒーターを持ったオーブントースターの中にいるようだ。もはや歩ける道ではない。森や林に接した、または日光街道のように杉を植えるなどした土の道は、驚くほどに涼しい。

道脇に流れる小川は、その周囲の冷えた空気や足や頭を冷やすことで涼を得られるささやかな清流は、どこにもない。コンクリートの排水路になってしまった。

吸水性のないアスファルトの道は、雨が降ると川となり、もはや歩ける場所ではなくなる。

『冬の道路の問題』

雪が積もると、除雪された車道と、その除雪された雪が積み上がった路側帯へと道は二分され、もはや歩ける場所ではなくなる。宮城から先へと進めなくなった。

『通年の道路の問題』

古い時期に建設された道路やトンネルや橋は、路側帯がない(ないに等しい)ところが多い。そこに大型のトラックが走っているので、もはや歩ける場所ではない。たまに道幅と同じ車幅を持つトレーラーが走ってくるが、完全に逃げ場を失い、両者向かい合って停止するか肩をかすめるしかない。

『海岸線の問題』

日本を縦断すると分かるが、消波ブロックのない浜はもうない。たまに、例えば今いる鳥取県東浜(写真の浜)のようにそれがなくじつに美しい浜があると、高級リゾート列車の停車駅となり無人駅はガラス張りの立派な建物となる。なんとも皮肉。観光名所として行政に注目され、やがて防災として消波ブロックが積み上げられ、景観は失われやがて観光客の足は遠のき、といういつものパターンを繰り返すのだろうか。解決策を悩み考え、うまくバランスをとる必要がある。人間にはそれができるのだから。

例えばアメリカのタナナという街は、ユーコン川に氷が詰まって上昇した水位が数ヶ月ものあいだ下がらないという大洪水を経験したが、人々は高床式の家を建てることで対応した。ようは人間側が自然に対応する努力をしたのである。西洋のアメリカがそうなのに、東洋の日本が力でねじ伏せようとしているのは、やはり皮肉だ。

『過疎化の問題』

すでに皆が分かっているように、交通網を日本に張り巡らせば地方も国も豊かになる、という計画はうまく機能しなかった。国土は狭く、点の集合となり、仕事を求めて都市部という点へ、余暇を求めてガイドブックの観光地という点へ集中するだけとなった。歩いてみると、有名な観光地よりも遥かに素晴らしい場所は多々あることに気づく。高速に移動する視点から、歩くという速度の遅い視点へ、一度は立ち返る必要がある。

2022/07/07

Oniyanma

 Hi everybody! I’m Oniyanma, the biggest dragonfly in Japan. I met a human friend, Ryota Yamada, and have joined to his wonderful journey. No road is long with good company. Raiding on his shoulder is yeah comfortable.