2021/12/19

映像の世紀

つぶやき、である。

先日投稿した谷川岳の動画 https://youtu.be/cZAvRzVoRz4 であるが、一緒に登った多田と話したのだが、実際よりも何か凄い山のように見える。特に映像の選択や加工などはしておらず、撮ったままを繋げて音楽を入れただけなのではあるが。知っている人は知っているのだが、谷川岳は冬季登山の入門とされている山であって、山の中腹まではロープウェイで登って楽することができる。多くの死者を出しながらもロッククライマーを虜にしたあの有名な垂直に切り立つ岩壁は、通らずに登頂できる。それでも気象条件は厳しく冬山を何も知らずに入ったら滑落や凍死もあり得るが、南北アルプスと比べればやはり入門なのである。映像のマジック、とう言葉が浮かぶ。

うちのアドベンチャー珈琲用に撮影したのだが、エキストリーム・コーヒーと言えるとするならば、この谷川岳よりも遥かに、昔撮影した別寒辺牛湿原 https://youtu.be/l5iQ7nH2728 やユーコン川 https://youtu.be/RFSkB3Xbzik の方が、10倍も100倍も困難でありリスクが高くふさわしい。だが現実と映像とは少しズレるのである。レンズで「切り取った」絵に迫力があったり圧倒されたりするような、すなわち「映像栄え」する景色というのは、体験する世界とは少しズレてくるのである。ましてや臨場感溢れるように撮ろうとすればそれなりの数や重量の撮影機材が必要であり、また熟知したスタッフを必要とするので、本当に困難な場所で困難なことをしている時には、そのような撮影をしている余裕もなければ、良いアングルにカメラを設置して、はいアクション!なんてカチンコを鳴らすことがそもそも出来ない。

しかし撮影をしたことのない一般の人々はカメラアングルや色調整や音楽の効果というものを知らないので、言い方が悪いかもしれないが簡単に言えば、ダマしている、という気持ちになってしまう。少なくとも初めのうちは。素晴らしい映像を撮る、感動する映像を撮る、ウケる映像をとる、すなわちそれって俺はエンターテイナーになろうとしているの?という矛盾が生まれてくるのである。考えされられる話になってくるのである。じゃあ映像なんて触れるべきではないのか、少なくとも本質を求めたければ。そういう話になってしまうのだろうか。

う〜ん、と考えれば、そうとも言えないのではと思えるところもある。物事を広く捉えれば良いのではないか。人間を動物という広い枠で、数百年という広い時間で。ほとんど猿と変わらない遺伝子を持つ人間が人間らしい進化を遂げたのは、変化し取捨選択されながら子孫へと引き継がれる新たな形態の遺伝子として、物語という人から人へ語り継がれる文化を獲得できたことが大きいのだと思う。その昔、その物語もやはり語り手の表現能力が高ければ高いほどより多くの聞き手を魅了し、次の世代へと語り継がれ、生き残ったはずである。そしてまた必ずしも現実に沿ったものとは限らない物語として、最初の語り手を離れて生き物のように変化成長し続けてきたはずである。それが人類の進化の方向を決定づけてきた。その物語と現代の映像とは、どれほど異なるものなのだろうか。昔を振り返れてみれば、物語というのは人間に運命づけられた人間の欠かせない本質の一部であるように見えるのと同様に、やはり未来の時点から今を振り返れば、映像も似たようなものなのではなかろうか。まあ簡単に言えば、俺がごちゃごちゃ考えようと考えまいと、誰が考えようと考えまいと、映像の世紀というのは人間という生命体の避けられない流れなのだ、流されなさい、ということなのだろうか。

そしてまた、見る人が見れば分かるはずである。同じ人間なのだ。

ということで納得しておこう。 

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