2015/10/30

川旅を終えて

 両足の指の痛みが取れない。軽い一度弱の凍傷だろう。子供がちょっと手を出して痛い経験をする、限度を見極めるためのいい学習になったと思っている。
 どかた用の厚手の靴下を履いていたが、それでは氷点下五度(これはたまたま見たときに温度計がさしていた温度だが、実際の最低気温はどれほどであったのだろうか。データを取るために冬山で使えるような最低気温計を見つけたい)では役不足であった。今回は装備を切り詰めて代わりに三週間分の食料を運ぶという試みをしていたので、寝袋はダウン量が少ない方を、白金カイロは持って行かなかった(寝袋の中で臭う、その臭いのもとである揮発成分が身体に良いとはあまり思えない、発熱する際に水分を出すから寝袋がそのぶん湿る、燃料のベンジンを航空機で運べない、使用済みの白金懐炉も航空機で運べないという課題を抱えているのだが)。
 ダウンのソックスを高価だが買う必要がありそうだ。
 それに冬山のプロに教えを請うた方がよさそうだ。カヌーであってエベレストに登るわけではないから、いままではどかた用品、カヌー用品、登山用品を混ぜて使い、高価な登山用品はなるべく避ける方向でいたのだが。

 ちなみに漕いでいるときのいでたちは以下だ。
 防水透湿素材の釣り用ウェーダー(胸まであるブーツ付き吊りズボン)。水産加工用の丈夫な耐寒グローブ(倒木越えの際に、倒木を折ったり引き抜いたりとかなり手荒な作業をする)。
 この二つはベカンベウシ川の倒木越え仕様であって、カヌーとしても僕だけの特殊な格好だ。
 スポーツ用のサングラス(倒木越えの際、しょっちゅうしなった枝に顔を打たれるので、目の保護に必要)。帽子(倒木の下を潜るときには頭を擦るし、やはり枝で打たれるのでこれも必要)。ライフジャケット。BOMBERというカヌーウェアメーカーのフリース上下(もこもことしたものではなく密度の濃いストレッチするフリース。なんと呼ぶのだろうか)。モンベルの防水透湿アウター。

 発芽玄米を主食にするのはまあまあうまくいったようだ。発芽玄米は栄養がありそうだという思いこみも影響しているはずだが、マルチビタミンを飲まなくても「野菜を食べたい!」という身体の欲求は出てこなかった。アルファ米に比べて15パーセント重いだけだし、炊くのに燃料を消費するが焚き火でも焦がさずにうまく炊けたし、カヌー旅にはよいのでは。

 旅の最中に文章を書く意味はまだよく分かっていないものの、現場での特殊な精神状態で書かれたものは、それが終わってから思い出して書くのとはまた違うはずだから、それなりの意味があるのだろうと思っている。まあ自然の中と人間社会の中とで、どちらを特殊なのだという議論の余地は大いにあるが。読む方も、たとえ意味を読み取るのが難しくてもそれなりに面白いのでは。あとで自分で読み返すのは怖いけれど。これも時代に合わせた試みだろう。そもそもブログやFacebook自体も試みだ。
 ブログとFacebookに投稿する仕組みは(電源がない環境では通常通りにブログやFacebookにアクセスしていられない)、自作のWebサーバーにまだバグがあり、同じ内容を何回も投稿してしまうなどの問題があった。スマホから文章と写真をそのWebサーバーにメールで送ることも、携帯電話網の電波がとても弱く、また電源は電池だけという環境では課題が多かった。もっとも、さらに人里離れたカナダやアラスカでは衛星携帯電話しか使えず、高価なので手が出せないが。

 ポメラというキーボード付きの文字入力デバイスは、初めて試したが、これなしでは文章を書けなかった。乾電池で動くからである。しばしばフリーズしたが(開発は他社に依頼しているので、まあ仕方がないだろう)、それでも電池を入れ直せば使える。

 今回は秋のベカンベウシ川という、早春に負けず劣らず素晴らしい体験をした。さらに、二月の初旬には人が歩けるほどに川が完全凍結するので(ここのところの異常気象で毎年どうなるかは予想がつきにくいが)、クロスカントリースキーを履いて凍り付いた湿原の川を歩くのも素晴らしいはずだ。


2015/10/28

川旅の終り


man現在地と移動軌跡の地図を表示

 ベカンベウシ川は厚岸湖に流れ込んでいる。牡蛎の養殖で有名な汽水湖だ。その厚岸湖を漕ぎ渡って厚岸町の市街地に上陸しようとしたが、真っ向から吹く強風にあおられて、力一杯漕いでもカヌーが一メートルも進まない。水中にパドルの水掻きを差し込むと反対側の水掻きは宙に浮くが、そいつが風を受けて風圧で体ごと持っていかれ、バランスを取らないとひっくり返りそうになる。白鳥は飛び立って移動することができずにいた。 
 この風は僕が一昨日に初雪と強風をくらった低気圧の振り戻しだ。最大風速は15メートル毎秒を観測しているらしい。この風速はここら辺りでは普通かと学芸員の渋谷さんに訪ねたら、やはり異常な気象だとのこと。気温にしても、二日前にはマイナス五度の中で寝ていたのに、昨夜は十度を超えて暖かかった。
 風が止むのを待っていると食料が尽きてしまう。すでにベカンベウシ川の河口に来ていて川下りとしては終了しているので、今回もここで終えることにした。
 最後はこの言葉で締めくくりたいと思う。どこかで吠え続けている仲間のために。
 アシがなびく
 僕の遠吠えは湿原の強い風に霧散する
 それでも僕は吠え続けるのだ


2015/10/27

菱の実








 ベカンベウシ川の中流と下流域はラムサール条約の湿地となっており、今日はその下流域を下った。
 百羽以上で群れていた白鳥が、僕のカヌーが二百メートルほどまで近づくと、バタバタバタと大きな音をたてながら翼の端で水面を叩き、一斉に空へと舞い上がった。体の大きな白鳥が群れて飛び立つ姿は圧巻で、もう何かを考える余裕を持たせてはくれず口をぽかんと開けるようにただただ見入るしかなかった。くぉくぉくぉっと鳴き交わす声が湿地全体に広がる。水面には白い羽毛が無数に浮き散らばっていた。僕のカヌーの中にもいつのまにか真っ白な羽が一枚、出会いのプレゼントのように舞い落ちていた。
 厚岸町立水鳥観察館はベカンベウシ川沿いにあり、カヌーで直接訪問することが出来る。学芸員の渋谷さんに挨拶するためと、今夜はそこでテントを張らせてもらうために上陸した。
 ベカンベウシとはアイヌ語で「菱の実があるところ」という意味であるが、今回下った際に探してみたものの見つからない。渋谷さんに聞いてみたら、じつは地元の人もいままで菱の実を見たことがなかったそうだが、去年ベカンベウシ川の支流であるフッポシ川で渋谷さんが菱を一株見つけ、今年はその場所に群生していたそうだ。実物を見せてもらったが、なるほど確かにマキビシであって、踏むと痛そうである。ちなみに時期的にはもう遅くて、九月の半ば頃に実を付けるらしい。
 
 僕が一昨日体験した暴風は、どうやら大きな低気圧が北海道を襲っていたらしい。ベカンベウシ川に入ろうとしていた日にも台風がかすめたし、北海道の気候がだいぶ変わってきているとのこと。さらに地上よりも海水温の方が温暖化の影響を強く受けていて、海表面で二度ほどはあがっていて、中層ではもっと温度が上がっているそうだ。なので地上の動植物よりも魚の生態に影響が深刻で、温度が上がったため放流した鮭が北海道まで戻ってこないらしい。昔は冗談混じりに、青森の大間のマグロがそのうち北海道にやってくると話していたらしいが、今は本当にくるそうだ。鰯もまるまると太ったやつが穫れるとか。
 昨夜まではテントの中で丹頂鶴の鳴き声を楽しんでいたが、今夜は白鳥が鳴き交わす音が聞こえる。今夜もよい夜になりそうだ。狸の来客はなさそうだが、ついさきほど鹿がやってきた。


2015/10/26

湿原の風









 今朝はうっすらと積もった雪景色が朝日に映えて美しい。澄んだ氷のような一日が始まった。
 しかし気温は低い。朝食後の食器洗いは、凍り付かせてしまった手袋とスポンジでする羽目になってしまった。

 昨日に比べれば風が弱くなっていた。吹き曝しだからある程度の風は吹くものだし、食料も少なくなってきているからなと判断して、今日は下ることにした。
 なんど漕いでも湿原は素晴らしい。突風にカヌーがあおられて、ひっくり返らないようにバランスを取らなければならないこともあったが、ざざざざざと強い風にアシがざわめき渡る湿原もまた魅力的で、何かが僕を強烈に引き付けていた。
 
 アシがなびく。僕の遠吠えは湿原の強い風に霧散する。それでも僕は吠え続けるのだ。


Bekanbeushi Marsh in autumn 2015 second paddle ベカンベウシ湿原 2015年秋 二回目


 撮影日の前日となる10月25日は、前線を伴って急速に発達した低気圧の影響により、暴風が吹き荒れ、雹と初雪が降った。僕は丸一日、風でばたばたと暴れ、またひしゃげるテントの中で、嵐が過ぎ去るのをじっと待ち続けた。夜の気温は氷点下五度ぐらいまで下がっていただろう。
 枯れたアシが腐敗せずに堆積したのが低層湿原だ。丘や谷などの起伏がない、海のように完璧に水平な大地が、どこまでも広がっている。草丈が二メートル弱のアシだけが群生し、樹木は生えていない。風の抵抗となるものが一切ない、究極の吹きさらしである。なのでことさら強い風が吹く。
 その前日に比べれば風が弱くなったので、僕はその日カヌーを漕ぎ始めたのだが、それでも水面を風が走り、アシがなびき、カヌーが流されているのを動画から見て取れるだろう。
 穏やかなアシの原も素敵だが、また風吹き荒ぶアシの原というのも魅力的な世界で、何かが強烈に僕を引きつける。風と、水と、白い雲と、青空と、冬枯れのアシと、ざざざざざと風に暴れるアシの音と、ごうごうと唸る風の音。それだけが世界に存在する全てとなる。どこまで漕いでもどこまで漕いでも。そうなると時間の流れも空間の広がりももはや意味を失って、まるで異次元の世界なのである。

 2015年秋に、ベカンベウシ湿原を蛇行するベカンベウシ川をカヌーで下ったときの映像である。
 ベカンベウシ川は、釧路湿原に次いで日本国内二番目の広さを誇るベカンベウシ湿原を流れ、厚岸湖へと注ぐ、北海道東部の川である。いまだ原始的な自然が残された流域はラムサール条約にて保護されており、絶滅危惧種である丹頂鶴、大白鳥、オジロワシなどの鳥類や、おなじく絶滅危惧種であり幻の魚と呼ばれているイトウや、そしてヒグマなど、無数の動植物が生息している。
 またベカンベウシ川は、護岸工事がされておらず川ほんらいの自由気ままな蛇行を繰り返し、その流域には住宅や牧場や田畑はなく、また砂防ダムも存在せず(支流に一基あるが、それもイトウを保護する活動によりスリットが切られた)、もはや日本においては奇跡的に生き残った原始の川と言えよう。
 ベカンベウシ川の中流域にはヨシが群生する広大な低層湿原が広がっており、映像はそこをカヌーで下りながら撮影された。撮影ルートはここで
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zNmcEcuYNxq8.k0H3yxgcT6QE&usp=sharing
見ることができる。湿原を二つの異なる視点、空からの視点で撮影した航空写真と、川の水面からの視点で撮影した動画から眺めるのが面白い。
 またこの川下り全体3週間弱の記録はここ
http://blog.ryotayamada.com/search/label/%E3%83%99%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%82%A6%E3%82%B7%E5%B7%9D%E3%82%92%E6%BC%95%E3%81%90%202015%E5%B9%B4%E7%A7%8B%20Paddle%20in%20the%20Bekanbeushi%20River%20in%20autumn%202015
で読むことができる。

 This is the movie taken when I kayaked solo in the Bekanbeushi River meandering through the Bekanbeushi Marsh in Japan in the autumn of 2015.
 The Bekanbeushi Marsh is the second largest marsh in Japan protected by the Ramsar Convention.
 The Bekanbeush River is the last river miraculously untouched in Japan.The river has the low moor reed grows gregariously in its middle course and the movie was taken in there. You can see the map of the filiming course at here
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zNmcEcuYNxq8.k0H3yxgcT6QE&usp=sharing
. And also you can see the entire record of this 3 weeks kayaking at
http://blog.ryotayamada.com/search/label/%E3%83%99%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%82%A6%E3%82%B7%E5%B7%9D%E3%82%92%E6%BC%95%E3%81%90%202015%E5%B9%B4%E7%A7%8B%20Paddle%20in%20the%20Bekanbeushi%20River%20in%20autumn%202015


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2015/10/25

猛烈な風


 空が唸りを上げている。猛烈な風が吹き荒れている。昨夜から吹き始め、太陽が昇って日の光が射すようになっても、いっこうに収まる気配がない。

 広大なアシの湿原がここから始まるという場所に、テントを張っている。アシの湿原は、完璧な水平面がどこまでも広がり、風の抵抗となるものが一切存在しない、究極の吹きさらしだ。だからことさら強い風が吹くのであろう。
 空には、どこから鳴っているのかはっきりせず方向感のない、ごく低音のおうおうおうという音が、ほとんど変化することなく轟いている。
 そして方向と距離感を伴ったごうごうごうという音が、離れた場所から聞こえ始める。そいつは風の道という形を持っている。風の道は龍のようにうねりながら、だんだんとこちらに近づいてくる。具体的な形を持っているものだから、実体をもった恐怖として襲いかかってくる。どんどん音は大きくなり、そして広がり、ついに風の道に飲み込まれると、もう地獄のような騒ぎとなる。ごうごうごうという音と、暴れるテントの壁に映し出された荒れ狂う嵐の映像が、あたり一面をぐるぐると渦巻くのだ。テントはばたばたと暴れ、ひしゃげて寝袋に覆い被さってくる。

 こんな日は丹頂鶴は森の中へと避難しているのだろうか。鳴き声は聞こえてこない。僕はテントの中でじっと待つとしよう。

 夕方になり雹が降った。
 丸一日、冷たい風が吹き荒れ、日が射し、雨が降り、雹が降る荒れた天気だった。

 日が沈み、雪が降り始めた。初雪だ。
 こんな夜は、動物達もまったく物音をたてずにじっとしている。風の音だけが渦巻いている。


2015/10/24

遡上



 待ちに待っていた太陽が昇った。十三時間も何もせず寝袋にくるまっていたのだ。

 右岸にリスのような体つきで、それよりも四倍ぐらいの大きさの真っ黒い動物が一匹現れた。ミンクだ。
 今回は単独行なのでいつも先頭だ。なのでなおさら動物に出くわすことが多い。パドルを漕いで前進しているときは水音をたてるが、川の流れにまかせてパドルはただ舵を操るだけにしていると、ほとんど物音をたてることがない。なので水辺の動物を観察するにはうってつけの手段だろう。

 人生は川の流れそのものだと思う。人生は大きく蛇行しながら流れる。流れる場所は地形や樹木しだいだ。想像してした、あるいは想像している場所には、水が流れることはないだろう。私という存在が唯一できることは、川の流れを恐れずに飛び込んで、流れの先で展開する想像だにしなかった出来事を、しっかりとその目を開いて見つめ、オールで舵を取ることだけだ。そして川とは何かを理解するのだ。そのときはじめて創造という海へ流れ出る。

 昨日下った湿原を、今日は川の流れに逆らって遡上してみた。マスの気分である。流れは速く、日は短く、雨は降るわで、チョコレートをエネルギー源に休む暇なく漕ぎ続けた。

 ベカンベウシにくると毎回野営をするお気に入りの場所に、今回もテントを張った。湿原を望み、テントを張りやすい少し開けた草地がある、夕日にベカンベウシ川が映える素敵な場所だ。
 雨上がりなので蛙の来客が多い。二三センチの小さな茶色い蛙が、入れてくれと言わんばかりに、テントの出入り口の布に三匹も昇ってきた。別の場所に放そうと捕まえると、手の平の上で大人しくしている。

 ここでも川エビが穫れる。川岸の水が淀んでいる場所に集まっている。炊いたご飯を餌として沈めておくと、さらに集まってくる。三四十匹は穫れただろう。

 面白いことに湿原の土には石ころがない。テントを張るときにペグ代わりにした長い鉄串が、何本さしても根本まですっと土に入るのだ。堆積したアシが土になったのが湿原なのだということを、机上で学ぶだけではなく、本当にいま体験しているのだ。


2015/10/23

こんじきの原









 夜明け一番に活動を開始するのはゴジュウカラだ。葉の落ちた裸の枝から枝へとせわしなく飛び回り、熱心に木肌を突いている。どこに虫がいるというのか僕にはとんとわからないが、ゴジュウカラの視点に立てば、そこにはちゃんとご馳走があるのだろう。

 氷点下ですべてが凍てついている朝は、手がかじかんで出発準備もままならず、何をするにも倍の時間はかかっている。だが朝日が体に当たって暖かさを取り戻すと、春を迎えて冬眠から目覚めた蛙のような、とても幸せな気分になれる。

 今日からベカンベウシ川の中流部へと入った。上流部では広葉樹林が主体であったが、ここからは広大なアシの湿原を川が蛇行する。
 湿原はもう一面がアシだけで埋め尽くされていて、樹木は湿原を横切る川の岸辺だけにごくわずか、たまに一本から数十本単位でぽつんぽつんと立っているだけだ。川へと倒れ込む岸辺の樹木がほとんどなくなるため、川を塞ぐ倒木の数も上流と比べてぐんと減り、カヌーはほとんど、ただ浮いて川に流されているだけか、のんびりと漕いでいるだけでよくなった。
 かさかさかさと風に揺れるアシの音、そしてころころころと湿原から川へと流れ落ちる水の音だけが大地に響く。かさかさかさという音、ころころころという音、アシ、水、雲一つない青空だけが世界に存在するすべてだ。下れども下れども、かさかさかさと、ころころころと、アシと、水と、青い空だけなので、時間の流れも空間の広がりも、もはや意味を失っていた。
 両岸には、悠久の年月をへて堆積したヨシから生まれた土が、むき出しの壁となってどこまでも続いている。その土壁は水中まで垂直に切り立つ。土壁の上部には、ヨシの茎と根で出来たひさしが、茅葺きの屋根のように張り出している。
 カヌーを岸に着けて上陸することはできない。
 しかし、湿原に蓄えられた水がちょろちょろと川へ流れ落ちている場所がところどころにあり、その一カ所で、土壁が崩れてカヌーのお尻だけ入り込める小さな入り江となっているのを発見した。足付き場となるような場所はないが、無理矢理上陸を試みた。
 どこまでも平たく起伏一つない大地が、世界の果てまで、こんじき一色に輝いていた。
 自然も人間も超越したような美しさだった。銀河系を遠くから眺めているような。均質な黄金色に輝く、幾何学的に完全な平面。イデアの大地。
 この場所で昼夜を過ごしてみたいと思った。金色の原に浮いて寝たいと思った。
 テントが張れそうな場所を探し回る。しかし長靴をぐっと踏み込めば水が染み出すのは、右も左も前も後ろも、どこに行っても変わることがなかった。これではテントがわずかながらも水没してしまう。あきらめるしかなかった。

 今夜は川のすぐ脇二十センチの場所にテントを張った。対岸には広大な湿原が広がっている。その湿原の中の、僕からたった二十メートルほどしか離れていない場所で、じゃぼじゃぼというかなり大きな音をたてながら、何かが歩き回り始めた。背の高いアシに隠れて、その動物はなかなか姿を現さない。だがやがて、白い頭がちらりと二つ見えた。丹頂鶴だった。全部で三匹ほどいる。
 今日の昼に湿原の中を探索したとき、網の目のように獣道が走っているのを見て少し驚いたが、なるほど、丹頂鶴が歩いた跡なのかもしれない。
 目と鼻の先でじゃぼじゃぼと歩き回る丹頂鶴。写真を撮りに来た場所で、朝靄のなか愛のダンスを踊る美しい理想的な丹頂鶴を目撃したわけではない。しかしなにかこう、泥臭い生活臭の漂う生の丹頂鶴と息を共にしているのであって、それを今いたって嬉しく感じているのだ。

 その対岸の湿原で、ぎゅうわおーという毎晩聞く雄叫びがまた響き始めた。「いったいなんの動物だろう。熊のように恐ろしげな鳴き声だが、熊にしては甲高いような気がするし、あちらこちらで鳴いているのが聞こえる割には、熊の足跡は水飲み場にまったく見つからないし」と、不思議に思っていた鳴き声である。
 湿原の中から聞こえてくるのだ。熊のような大型動物が、足を踏み込めばズブズブと水が染み出すような湿原に、何かの用事を持っているとはなかなか思えない。また、対岸だけでなく、いま同時に十カ所以上で鳴いているのだから、僕の近隣に熊が十匹以上もいることになってしまう。それではたまったものではないし、そんなこともありえないだろう。
 だとすれば、これは丹頂鶴に違いない。丹頂鶴はこうこうと鳴くか、ぐわぉぐわぉと一団で鳴き交わすかのどちらかだと思っていたのだが。「もしかしたら陸上の動物ではなく鳥だったりするのかもしれない」などとは考えていたが、それにしてもまさかの展開である。
 しかし丹頂鶴とは、その端麗な姿とは似つかわしくもなく、なんと不気味な声で鳴く動物だ・・・・・・
 でも本当に丹頂鶴?うむ、確たる証拠はない。なにせその声で鳴いている動物の姿を、まだ一度もこの目で見てはいないのだから。
 まあ動物に詳しい人ならば聞いて苦笑いするような話だろうが、ときには情報を持ちすぎるよりも、こんな子供のようなドキドキしながらの発見がとても面白いものなのだ。

 玄米とキャンプの相性がとても良いことに驚いている。今まで気づかなかったとはうかつだった。とても炊きやすいのである。水加減が適当でも、火加減が適当でも、なぜか焦げ付いたりしない。野菜を煮込むような適当さである。昨夜に玄米を入れたコッヘルを、そのまま焚き火に突っ込んで炊いてみたが、ガスストーブで炊いたときとまったく同じような炊きあがりだった。なぜだか推測してみるに、白米を炊くときのような糊状の粘っこい液体が出ないため、それによって水の対流が妨げられるということがなく、均等に熱が行き渡って焦げ付くことがないのでは。
 付け加えれば、熱伝導の悪いチタンのコッヘルであっても、熱を拡散させる金網など使用せず、まったく焦げ付かせずに炊くことができる。
 焚き火で白米を炊くのはかなり面倒な作業なので、今まで炊飯はガスストーブを使うのが常であったが、これであれば、これからは焚き火を使うことでガス缶の量が減らせそうだ。 

 十三時間という長い夜はますます寒くなり、指を使う細かい作業ができなくなった。寝袋の中でじっと朝日を待つしかない。

 寝ている僕の頭のすぐ脇、テントの薄い布地を挟んで数センチのところで、何かの動物がごそごそとやっている。たぶん狸だろう。川岸の獣道のある場所にテントを張っているのだから。


Bekanbeushi Marsh in autumn 2015 first paddle ベカンベウシ湿原 2015年秋 一回目



 動いているものは、風になびくカヤだけであった。
 聞こえてくるものは、かさかさと吹かれるカヤのねと、ころころと湿原から川へ落ちる水のリズムと、こうこうと鳴く丹頂鶴の声と、いくら耳を澄ましても聞こえてこない雲の音だけであった。
 漕ぐことはぼとんどせず、方向を修正するためだけにパドルを水に差し入れる。静かに静かに水に流される。ただただ流れゆくカヤの岸を眺める。ただただそこにある空間を感じ取る。
 もう地上にいるのも、水上にいるのも、宇宙にいるのも同じことだ。僕がちっぽけなのか、宇宙がちっぽけなのか、どちらでも同じことだ。先程の曲がり角が経験したできごとか、この先に見える曲がり角が経験したできごとか、どちらでも同じことだ。

 2015年秋に、ベカンベウシ湿原を蛇行するベカンベウシ川をカヌーで下ったときの映像である。
 ベカンベウシ川は、釧路湿原に次いで日本国内二番目の広さを誇るベカンベウシ湿原を流れ、厚岸湖へと注ぐ、北海道東部の川である。いまだ原始的な自然が残された流域はラムサール条約にて保護されており、絶滅危惧種である丹頂鶴、大白鳥、オジロワシなどの鳥類や、おなじく絶滅危惧種であり幻の魚と呼ばれているイトウや、そしてヒグマなど、無数の動植物が生息している。
 またベカンベウシ川は、護岸工事がされておらず川ほんらいの自由気ままな蛇行を繰り返し、その流域には住宅や牧場や田畑はなく、また砂防ダムも存在せず(支流に一基あるが、それもイトウを保護する活動によりスリットが切られた)、もはや日本においては奇跡的に生き残った原始の川と言えよう。
 ベカンベウシ川の中流域にはヨシが群生する広大な低層湿原が広がっており、映像はそこをカヌーで下りながら撮影された。撮影ルートはここで
 https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zNmcEcuYNxq8.kX0kpRk4-fBM&usp=sharing
見ることができる。湿原を二つの異なる視点、空からの視点で撮影した航空写真と、川の水面からの視点で撮影した動画から眺めるのが面白い。
 またこの川下り全体3週間弱の記録はここ
 http://blog.ryotayamada.com/search/label/%E3%83%99%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%82%A6%E3%82%B7%E5%B7%9D%E3%82%92%E6%BC%95%E3%81%90%202015%E5%B9%B4%E7%A7%8B%20Paddle%20in%20the%20Bekanbeushi%20River%20in%20autumn%202015
で読むことができる。

 A thing in motion is an only reed swaying in the wind.
 Things I can hear are only a rustling sound of the reed, a rhythm of water run down from marsh to river, a song of red-crowned crane and a sound of cloud that I cannot hear no matter how hard I strain.
 I almost never paddle. I just put the paddle into the water for directional correction. I am swept downstream so quietly. I just take in the ever-changing view of the bank reed grows gregariously. I just feel the space existing there.
 There is no difference between, I am on the ground, I am on the water or I am in the universe. There is no difference between, my existence is tiny or the universe is tiny. There is no difference between, a thing I experienced is the last corner I paddled through or a thing I experienced is the corner I see ahead.

 This is the movie taken when I kayaked solo in the Bekanbeushi River meandering through the Bekanbeushi Marsh in Japan in the autumn of 2015.
 The Bekanbeushi Marsh is the second largest marsh in Japan protected by the Ramsar Convention.
 The Bekanbeush River is the last river miraculously untouched in Japan. The river has the low moor reed grows gregariously in its middle course and the movie was taken in there. You can see the map of the filming course at here
 https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zNmcEcuYNxq8.kX0kpRk4-fBM&usp=sharing.
 Moreover, you can see the entire record of this 3 weeks kayaking at
 http://blog.ryotayamada.com/search/label/%E3%83%99%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%82%A6%E3%82%B7%E5%B7%9D%E3%82%92%E6%BC%95%E3%81%90%202015%E5%B9%B4%E7%A7%8B%20Paddle%20in%20the%20Bekanbeushi%20River%20in%20autumn%202015
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2015/10/22

食べ物




 日の出前午前五時、テント内にぶら下げた温度計は二度を指している。昨夜まで二晩過ごしたアシの上では氷点下三度を指していたので、やはり水をスポンジのように含んだアシの上より土の上にテントを張った方が暖かいようだ。
 二週間前に焚火で熱を入れた肉と魚が、いまだにおいしく食えている。腹の調子が悪くなるようなこともない。冷蔵庫など当然ないので、昼間の直射日光で暖められて、湿気を吸収するために米をフライパンで煎って乾燥剤にしたものを一緒に入れてはいるものの、それでもジップロックの中に密閉されてさらに防水バックの中に密閉された魚や肉がじっとりと汗をかいたりしている。普通の主婦ならば、それを見てもう捨てようと思うかもしれない。人間の体は意外と丈夫にできているのだなぁ、と感心する。
 野山の動物は土の上に落ちているものを平気で食べているのに、人間はそんなことをしたら病気になって死んでしまうかのごとく認識している。人間も動物も遺伝子的にはほぼ同じなのであるから、消化器官にも免疫系にも根本的に大きく違うところはないのだろうと思う。なのになぜ人間だけが弱いのかと不思議に思っていたのだ。きっと病気に対する耐性はあまり変わらないのだが、病気にかかる確率をどのように受け取るか、ということなのだろう。食品を製造する企業などは、万が一、それどころか一億分の一であっても食中毒を出せば企業生命にかかわるから保存料を使わざるを得ないし、食べる側の個人もその一億分の一の確率に当たって苦しい思いをすることに恐れおののくものだろうから。その点動物にとっては一億分の一の確率など意味をなさない。
 主食が一日あたり玄米二合とロールパン三個では、カロリーが不足しているのかもしれない。焚き火を探し集めていた時に、でこぼこして枯れ木が落ちる土の上で、足下がおぼつかずふらふらした。そして思考回路もあまり回らなくなった。
 飢えるというのは貴重な体験だな、と思う。
 そして夜の焚き火で米を炊くまで待てそうにもなかったので、テントの中でお湯を沸かしコーンスープを飲んだが、そのとき感じた幸福感。これもまた貴重な体験だなと思った。
 今夜からカロリーを増やそう。それまで寝て待とう。動物のように。


2015/10/21

遠吠え






今日はかなり冷え込んだので、日中カヌーを漕いでいるときに、いつもは着ていなかったフリースの上下を着込んだ。風が冷たい。冬が一歩一歩近づいているのがよく分かる。
 夕暮れ前に新しい野営地でテントの設営をしていると、エゾリスより三四倍大きくて真黒なミンクが、キーキーと鳴きながら二匹で枯れ葉を踏みならし追いかけっこを始めた。今日は動物との出会いが多い日だ。
 日が暮れると遠吠えの大演奏会だ。中流域に入ってますますその数が増えてきた。狼の亡霊としか聞こえない遠吠え。熊としか聞こえない雄叫び。
 しかしその暗闇の恐怖にもだいぶ慣れてきた。心があまり恐怖だと認識しなくなってきている。ただ自分のテリトリーを主張してむだな争いを避けようとしているだけのこと、と感じるようになってきた。僕のテリトリーの近くで鳴かれることはまだない。
 だから僕もたまに闇夜に向かって遠吠えをあげている。僕はここにいるよ、会いたくない人は避けてね、と。
 それにテリトリーの主張という理屈だけではない。長い、森に響きわたる遠吠えをあげると、むずむずした心がすっきりするのだ。ほかの動物連中だって、やはりテリトリーを主張しようと理屈で考えて吠えているのではない。心がそう動くから吠えているだけなのだ。ここは人間の僕も、心のむずむずに従った方がよい。ここは原野の中なのだから。


狸と民謡




 カヌーを漕いでいる道すがら、狸に出会った。川岸の獣道を二匹で連れ立って歩いている。一昨日一昨々日の狸とは明らかに違う狸だ。
 水流にカヌーが流されてしまわぬよう岸に生えたアシを掴んでイカリの代わりとし、狸とは反対の岸に停泊してその様子を眺めていたが、こちらに気づく様子もないので、思い切って狸のいる側の岸へとカヌーを漕ぎ進めてみた。カヌーが川の中央にさしかかった頃、一匹は僕を発見し、怪しいやつが近づいてくるぞと相棒に伝えもせずに、つれなくもと来た道を引き返していった。もう一匹はいっこうこちらに気づく様子もない。
 カヌーは地面よりも低い川に浮いていて、僕はそのカヌーに座っている。だから僕の視線はとても低く、ちょうど岸の上にいる狸の視線と同じ高さだ。また岸の土壁は垂直に切り立っているので、カヌーは岸壁に接岸する船のように、岸にぴったりと横付けされる。狸は川沿いぎりぎりの場所にいる。だからどんどんと僕の顔は狸に近づき、とうとう狸のまさに目の前、僕の目と狸の目との間が五十センチの所まで接近してしまった。それでもしばらく狸は気づかないのである!
 やはり狸は間が抜けている。
 民謡に描かれている狸のイメージは正しいのであった。
 さらにその十分後、こんどは狐に出会った。うむ、まるで日本昔話の中にいるようだ。夢かうつつか分からなくなってきた。


湿原の朝












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 この川下りでの最低気温を更新した。今朝六時の外気温は氷点下五度である。テント内の温度は氷点下三度だ。
 持ってきているすべての服、雨具として持ってきているズボンまでも履いて寝袋に潜り込んでいるが、寒くてとても寝れぬというほどのことではないものの、それでもヒンヤリとしてゾクゾクとするものが地面から伝わってくる。
 大量の食料を必要とする長期遠征なので荷物量には制限があり、ホカロンのような文明の利器は持ってきていない。また白金懐炉は、やはりどうしても触媒燃焼ではベンジン(石油から精製される)を完全には燃やし尽くせぬのだろう、寝袋の中が臭くなるので最近は使うことがない。衣服の量もぎりぎりに押さえている。はじめからすべての服を着込むつもりできているのだ。
 しかしその凍てついた空気のおかげで、昨夜の天の川はよりはっきりと見えて美しかった。大気が凍り、宇宙が近づく。
 手がかじかみ、小物袋の口を閉めているベルトを外そうとしても、プラスチックのバネを指で押すことがどうしてもできず、苦笑いをしながらあきらめた。体が暖まらないと動けないのは、朝日を浴びてやっと溶けたように動き出しテントの周りを飛ぶ虫と同じだなと思う。テントに日光が当たって暖まり、体が溶けるまで待つことにした。
 朝日がやっと陰を作っていた丘の木々よりも高く登り、陽光が直接テントの周りを覆うアシを照らし出すようになった。霜をまとった枯れ草色のアシが、きらきらと星空のような光を放つ。地上にも天の川が降りてきた。
 コロコロと心地よい音をたてながら流れている湿原の細い水路まで、厚さが二三十センチもあるふかふかな絨毯のようなアシの堆積物の上を歩いて行った。ふわりふわりと浮きながら歩く。水路脇に上げてあるカヌーに溜まった雨水が、厚さ数センチの堅くて鋭利な氷となっていた。
 朝飯として、先日穫れたベカンベウシの川エビを、ふりかけのように玄米にかけながら食べた。これがかなりうまくて、昨日も一昨日も食べているが、いっこうに飽きることがない。
 そう、四国の四万十川をカヌーで下っているときに穫れる手長エビは、一時間ほどがんばってみても収穫量が少ないので、ちょっとしたビールのつまみ程度にしかならないが、ここベカンベウシの川エビは、一食分以上のおかずとして蓄えることができるのである。
 手長エビは四万十名物として有名だが、この川エビも味としてまったく引けを取ることがない。
 はっきりとした白黒の体に鮮やかなオレンジ色の腹が映えるキツツキが、木琴の早朝演奏会を始めた。叩く木の幹により異なる豊かな音階が、朝の静かな森に木霊する。雑木林だから様々な木の種類があり、植林ではないので若木から大木まで様々な太さがあり、人の手が入っていないので健康な木から朽ち木まであることが、木琴に豊富な音色の鍵盤を与えてくれるのだろう。
 餌の虫を探すためだけに木を叩くのであろうか。雌を誘惑するために、人間と変わらぬ美的感覚で巣を飾りたてる鳥がいるほどだ。その音階をキツツキが楽しんでいないとはかぎらない。ほんとうに演奏しているのかもしれない。
 耳を澄ますと、ぱりぱりぱりぽちゃんぱりぱりと、凍てついた湿原が朝日に照らされ溶けゆくかすかな音が聞こえてくるのだ。
 朝の音。そう、記憶の彼方に忘れ去られていたこの音だよ。今日も太陽の熱を浴びて一日を始めるのだ。


2015/10/20

自然に対する畏怖の念





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 いま風が止み、湿原の夜は静かだ。物音がない。すると無意識のざわめきが浮き上がりだす。あなたという意識の実体は、無意識下で行われる概念化の終わる事なき回転だ。人は外界をありのままに感じているのではない。すでに組み込まれた、または生まれてから学習した概念として外界を認識している。今、音のない湿原で浮き彫りになった雑音にすら、休止することのできない概念化は、コーランのような音を当てはめている。
 私とは概念化であり、またそれを見いだす私を知ることが、次なる私へといく道だ。

 未知の発見が毎日ある幸せ。太陽の光がぽかぽかと暖かい幸せ。太陽が毎日昇る幸せ。夕焼けを毎日眺められる幸せ。陽光が生み出す陰影に感動する幸せ。天の川に宇宙を思う幸せ。月の満ち欠けに神秘を感じる幸せ。テントの壁が冷たい夜風から守ってくれる幸せ。テントの屋根が冷たい雨から守ってくれる幸せ。凍える夜を寝袋にくるまって暖かく寝れる幸せ。焚き火が冷えた体を暖めてくれる幸せ。焚き火が暗闇にうごめく動物から守ってくれる幸せ。焚き火をただ眺めている幸せ。小鳥が朝の歌で起こしてくれる幸せ。動物に巡り会える幸せ。川の生物が美味しい食べ物となってくれる幸せ。秋の色彩が心を感動させてくれる幸せ。そして不平という思いが気づけばなくなっている幸せ。

 静かに座って外と内に意識を傾けると、心は自然に畏怖を感じて、周囲を常に探っているのが見えてくる。雨風の音を敏感に読みとり、動物の気配を敏感に察知する。無意識下の自然な緊張感。幸せと恐れは表裏一体だ。自然に対する畏怖が、また幸せを呼ぶのだろう。

 自然に対する畏怖の念。それを取り戻さなければならない。

 午前二時半、テント内気温氷点下二度。


2015/10/19

昨夜の狸に再会



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 昨夜の野営地からさらに下流へ数キロ下った場所にテントを張っているのだが、昨夜出会った狸にまた会った。何かがアシをごそごそと鳴らしながら、テント脇にある湿原の獣道をこちらへと移動してくるので、ヘッドライトの光を当ててみると、なんとなつかしい姿がそこにいたのである。昨夜は下流に向かって右岸にテントを張り、今夜も右岸に張っているので、川沿いに続く同じ獣道の脇にテントを張っている可能性が高い。日が暮れたので、巣穴から餌場へと、いつもの時間にいつもの通勤経路を通っている途中なのだろうか。逃げもせず一メートル先でマイペースにごそごそと何かを探している。人間が餌をくれると学習しているのかどうかは分からない。
 人間と違って顔の見分けもつかないというのになぜ同じ狸だと思うのかといえば、まるで超肥満児の飼い猫のように、ずんぐりむっくりとしていて、のっそりとしているからである。民話に出てくる、月夜に腹鼓を打つ、どこか間の抜けたイメージがぴったりだ。今夜は三日月だが、七日後の満月の夜にまたこの湿原にテントを張って、彼がぽんほこと腹を叩く姿を見てみたい。
 しかしもしかしたら、がんらい狸というものはこのような動物なのであって、都会で見かける狸の方がいくぶん変わり者なのだろうか。たしかに民話として語り継がれているからには、それ相応の根拠があるのだろうし、氷点下に達する湿原で生きていくには、毛皮も脂肪もこれだけ太って見えるだけの分量があったほうが暖かろう。だとしたら昨日と同じ狸を見たのではなく、別の狸を見ただけのことなのかもしれない。もしくは化かされているだけで、狸もなにも、目が覚めてみたら湿原の中でなく、東京のベットの上なのか。
 そして、こんなことを書くと僕のことを嫌いになる女性がいるかもしれないが、この狸、ポン太と名を付けてペットとして飼いたいほど愛らしいのだが、同時にまるまると太っていて美味そうなのである。貝やエビは捕って食べているのだし、「狸がいたので捕って食ってみた。こいつがなかなかいけるのである」と書かなければ不公平なのかもしれない。「あんたがったどこさ、肥後さ・・・・・・」の歌が頭を巡る。

 湿原の夜はかなり底冷えする。水を含んだスポンジのような、足を運べばぐじゅぐじゅと水の染み出るアシの堆積物の上で寝ているのだから当然か。たっぷりとあるその水分が昼間の陽光で暖められ、夜になって蒸発したときに放射冷却で周囲の熱を奪うのだ。テントの外側に雨除けのフライシートを張るが、その内側にいつもよりも多い大量の霜が付いている。地面から立ち登った水蒸気が凍り付いたこの霜が、この放射冷却の状況証拠なのだろう。テント内の気温が二度ほどであったから、外は確実に氷点下だ。