UMIACK

2022/08/20

旅とクオリア

 徒歩の旅。カヌーの旅。自らの足による、自らの腕による、己の体を使った身体性を伴う旅。人はなぜ旅をするのか。旅は何を我々に見せてくれるのか。旅は動物に組み込まれた4億年の歴史をもつDNAの好奇心なのか。旅は人類の未知なる宇宙への探検なのか。


 旅はワクワクするものだ。子供のころ覚えたての自転車に乗ってまだ知らぬ隣街を探検すれば、そこには見たことのない真新しい世界が待ち受けている。そんな冒険へといざなう逆らいがたい好奇心は、大人になっても変わることなく続く。旅をすれば新しい世界に出会う。旅をすれば「世界観」が変わるのだ。これが世界の全てだと思っていたのにそれとは異なる新世界が、または「いや世界はもっと広いはずだ」という直感は得ていたもののそれがいったい何者なのか具体的には想像できずにいた新世界が、ペダルを漕ぐたびにグングンと地平線の向こうから飛び込んでくるのだ。


 旅をすれば変わる世界観。その「世界」とは何だろうか。


 はじめて北海道を旅してみる。はじめてインドを旅してみる。そこには今ままで慣れ親しんできた我が街とは異なる地形が天候が人々が街並みが広がっている。いまだ見たことのなかったその世界を、見ることで嗅ぐことで触ることで聞くことで味わうことで、その新鮮さを楽しむ。旅をすることで「私の周りに広がる世界」が変わる。私はその新しい世界を楽しんでいる、私の五感で「直接」に。

 「直接」……いや、果たして本当にそうなのか。私はいま見ているその世界を、ありのままに直接見て感じているのだろうか。まるでカメラが動画を撮影するように、ありのままを直接知覚しているのだろうか。


 コンピューターで車の衝突をシュミレーションする時は、その構造や材質を数値へと変換して入力し、車や衝突対象の変形という実世界での出来事をコンピューター内で再構築する。気象をシュミレーションする時は、地球の表面を細かいグリットに切り分けその気温、気圧、湿度、風速、風向きなどを数値へと変換し、大気の動きという実世界での出来事をコンピューター内で再構築する。現実世界をコンピューターで扱える数学の世界へと変換(写像)するのだ。では我々が外界を認識する時も、シュミレーション同様に外界を脳内へと写像し再構築しているのだろうか。

 いやそうではない。ある建築物を見ているとしよう。目というカメラの網膜という撮像素子が捉えたピクセル情報を、脳内で再構築、または再上映しているのではない。建築物の構造をXYZ軸の立体的な座標として抽出し、脳内の仮想空間で再構築しているのでもない。その建物を構成している石材の暗褐色という質感、その表面のザラザラとした質感、柱の直線という質感、ドームの円弧という質感、それらクオリアと呼ばれる質感が、脳内で写像されるのではなく「新たに」立ち上がるのだ。そしてそれらの色やテクスチャや形から総合的に、それが教会であると解釈する(志向的)クオリアが「新たに」立ち上がる。そのクオリアを意識が感じることで、「ああ、あそこに教会がある」と我々は知る。私の意識は外界を直接見ているのではない。私の意識は脳内で絶え間なく湧水のように噴き出し流れ落ちるクオリアを見ているのだ。だから例え私とあなたが隣り合って同じノートルダム大聖堂を観ているとしても、私が今観ている私の脳内で作り上げられたその教会と、あなたが今観ているあなたの脳内で作り上げられたその教会が、まったく「同質であるとは言えない」。もっと単純には、同じ薔薇の赤色を見ていても、それを同じ質感として見ているとは言えない。そして私とあなたのその主観的な世界を比較する手段を、我々は持たない。


 まるでカメラが撮影するように私も外界を見ていると感じるのは、そう勘違いしているのは、外部の世界と脳内で作られた世界像が、日常生活のなかではなんの支障も生まないほどに良く一致しているから、とても「よく出来ている」からである。だが錯覚や幻覚という非日常的なケースを通して、じつはそれが勘違いだったと気付く。一例を挙げれば、歳をとり網膜が傷ついて視野の左半分を光学的に失っていても、多くはその事実になかなか気づくことが出来ない。なぜならば脳は実際には見えていないその左半分の景色を、無意識下で自動的におそらくこうであろう景色として「でっち上げ」、その空白を埋めてしまう。我々の意識はそのよく出来た「でっち上げ」をそれと気付かずに外界の写像として知覚してしまうから、視野の欠損に気付けない。しかしよくあるケースとして、脳はその空白の見えていない空間に、実世界には存在していないものを描き出すことがある。たとえば小人。存在するはずのない小人が視界に現れて動き回るものだから、初めて患者は幻覚を見ていることに気付き、頭でもおかしくなったのかと医者を訪ねて、そして視野に欠損があるのだと検査で気付く。その小人は実世界の何者以上に「リアル」だそうだ。このケースからも解るように、「リアル」に感じている今まさに観ているその世界は、ある意味全て幻覚なのである。


 私が徒歩で日本縦断した時のこと、鹿児島県内の峠を一人、真夜中の3時ごろ歩いていた。鹿児島の夜は暗い。峠道には街灯がなく、折り重なる山の向こうに街の薄い灯りが見えることすらない。月も地平線の下に沈んでいた。唯一の光はヘッドライトなのだが、電池節約のためにローパワーモードで照らしていると、世界にはぼんやりと白く霞んだ道路の白線しか浮かんでいない。連日の寝不足も重なっており、やがて白線以外の真っ黒な空間に、はっきりとはしていないが色と形をもった幻覚が現れ始めた。生まれて初めての経験であった。歩き続けているので意識ははっきりしている。「ああ脳は、暗闇の部分に何も見ないというのが苦手なのだな」と考える余裕まであった。しかしながら、なんどでもなんどでも繰り返し幻覚が現れるのである。身体が幻覚の方へと引き込まれそうになるので、道路から転落しては大変だと道路脇の安全な場所で30分睡眠をとったら、それきり現れなくなった。形がはっきりとしない幻覚ではあったが、頭の中に記憶されている何かの物体を映し出そうとしているのだな、これが夢であるならばそこに何があるのか認識してしているのだろうな、という予感はあった。


 世界の脳内表現。それは英語での「表象」(Representation)、再び(Re)表現する(Presentation)ではなく、ドイツ語での「表象」Vorstellung、前に(Vor)置く(Stellung)というニュアンスに近い。変換し再表現するのではなく、新たに一から作り上げてぽんと前に置く。それがクオリアである。我々の意識は世界の全てをクオリアとして認識している。「時間と空間」ですらクオリアなのである。


 アラスカの原野をカヌーで旅する。日本の端から端まで徒歩で旅する。それらは、生まれてこのかた経験してきた世界=「時間と空間」とは異なる世界を旅することである。そして私の意識のなかで立ち上がる「時間」の質感(クオリア)が、「空間」の質感(クオリア)が、不可逆的に変化することを実感する。私の意識の中に今ここで立ち上がっているイキイキとした世界は、その時間と空間の質感は、今まで想像し得なかったものへと変化していく。それはまさに『世界観が変わる』という表現がふさわしい。


 日常とは少し異なった世界をその目で見る束の間の経験。そんな程度のものではない。あなたの中に構築された、いまリアルにあなたが生きている世界そのものが、「世界観」が変化する。


 しかし私という意識が主観的に体験するそのクオリアは、どういう手段を用いても他人に伝えることが困難で、強いもどかしさを感じるものだ。もしあなたが私の体験と同じものを得たければ、同じくアラスカを漕ぐしかない。しかしまた例えそうしたとしても、それが同じ体験であったのかどうかは証明不可能である。


 旅によって私の外界に対する世界観も変わるが、私の内界に対する世界観も変わる。旅は自分を映す鏡だ、ということは皆よく知っている。旅は自然との対峙でもあり、それは時に旅人を優しく包み込み、時に旅人へ荒々しく襲い掛かる。身体的にも精神的にも、様々な苦痛や喜び、そして忍耐や試練に立たされる。冒険の成否はいかに冷静に自分自身をマネージメントするかにかかっている。おのずと自らの心や身体の詳細な動きに集中するようになり、私が今どのようにそれら痛みや喜びや苦しみや興奮や落ち込みを認知しているのか、ということを認知する、すなわち認知を認知する「メタ認知」(meta-cognition)、言い換えれば客観的にまるで他人事のように外から自分の心と身体を眺める能力(脳機能)が日々24時間使われ、同時にトレーニングされる。そのことで自分の内面世界の豊かさを徐々に認識するようにもなり、またメタ認知の機能自体も徐々に強化される。

 メタ認知もまた主観的な体験でありその定義や説明は困難である。しかしそれが何であるのかを気付いている人にとっては、メタ認知の深まりが私の世界の豊かさに繋がることを、確信のように感じているのではなかろうか。このような側面からも旅は人の内面を豊かに育てるのだ。


 クオリアがどこからどのように生まれるのか、それは深い謎でありサイエンスとして解明できる目処は今のところ立っていない。同義で私の意識がどこからどのように生まれるのか、それは深い謎でありサイエンスとして解明できる目処は今のところ立っていない。馴染みのある話題で言えば、人工意識を作る手段は、そもそもそれがあり得るのかすらまったく見えていない。

 

 私の意識とは何か。私はなぜ生まれたのか。私はなぜこの宇宙に存在するのか。

 私の存在の不思議に目を向けた人は、おのずと私が存在する宇宙の存在にも興味を向けざるを得ない。なぜ宇宙は生まれたのか。なぜ宇宙は存在するのか。

 私の存在という謎は、覗き込んだ井戸の底に宇宙が見えるほどに深く広い。宇宙の存在という謎も同じように深く広い。両者は絡み合っている2本の糸のようでもあり、または繋がった1本の糸が折り重なりヨレているだけなのかもしれない。それは夜空に浮かんだ空想にすぎないのかもしれず、またはいずれ誰かに発見される海岸の煌めく小石なのかもしれない。それは遥かな昔からのホモサピエンス最大の謎であり関心であり、もしかしたらホモサピエンスをホモサピエンスとして動かしている最大のエネルギー源かもしれない。

 人が大地を旅するのも、私の存在や宇宙の存在の答えを求めて旅をするのも、その根底には生命のイキイキとした躍動を生む共通した力学があるような気がしてならない。

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